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激戦の地に開校 テントの校舎、師弟で掘った井戸 大城藤六氏、新田重清氏 糸満高校(2)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1947年に生徒と教師が掘った井戸の歴史を記す石碑。井戸は現在も散水などで使われている

 1946年1月16日、糸満高校が開校した。入学したのは旧制中学校に通っていた生徒ら153人。その中に県平和祈念財団理事を務めた大城藤六(91)がいた。

 1930年、真壁村(現糸満市)真栄平で生まれた。真壁国民学校高等科の時、青少年団真栄平分団の分団長となり、厳しい軍事訓練に耐えた。

大城 藤六氏

 45年4月、沖縄師範学校男子部に入学する予定だったが、米軍上陸でかなわなかった。6月末、真栄平で米軍に捕らわれ、現在の名護市二見の収容所に送られた。そこで高校開学の話を聞く。

 「同級生から『瀨嵩にハイスクールができるよ。行こう』と声を掛けられた。でも家族の食料を探さなければならないので、高校には行かなかった」

 46年の正月は糸満で過ごした。そのころ糸満高校開学の知らせを聞いた。「上級学校に合格していることを証明できれば、糸満高校に無試験で入学できた」。師範学校に通えなかった大城は糸満高校の1年生となった。同期には沖縄国際大学の学長を務めた沖縄民俗学の平敷令治がいた。

 開校時の糸満高校は、米軍の野戦用テントなど粗末な校舎が並ぶだけだった。教育環境の整備を最優先課題に掲げた玉城泰一校長の指示で、生徒と教師が一緒になってグラウンド整地など学校造りに励んだ。井戸掘りにも取り組んだ。

 「校門の左手にあったモクマオウ林の中で、生徒がつるはしを振るい、輪番で井戸を掘った。数日で水がこんこんと湧いた」

 台風襲来のたびに茅葺き校舎の屋根が吹き飛んだ。補修は生徒の役目だった。「茅は生徒が家から持ち寄った。体の小さな女生徒も台風の後は茅の束を頭に乗せて登校した」と語る。

 激しい地上戦があった地に設立された学校ゆえの役割も生徒は担った。遺骨収集である。大城も畑や道路わきに散乱していた遺骨を拾った。

 「真和志村の人たちが遺骨を集めていた。村長の金城和信さんの呼び掛けで糸満高校の生徒も参加した」

 沖縄戦による荒廃から、生徒ははい上がろうとしていた。教科書やノートはなく、米軍のごみ捨て場から拾い集めた紙をノート代わりにした。生徒は学ぶことに懸命だった。敗戦でうちひしがれている余裕はなかった。

 「早く高校を卒業して人並みに働こうと必死だった。戦争の中に放り出された私たちは、家族を食べさせるために働こう、家を造ろう、野菜やイモを作ろうという意識だった」

 大城も学校から戻ればカバンを放り投げて畑へ向かった。育てたイモを売って家計を支えた。卒業後は具志川市にあった沖縄文教学校で学び、教職の道へ進んだ。退職後は沖縄戦体験の継承や遺骨収集に力を注いできた。

 開校当時の糸満高校を振り返り「当時は若い先生が多かった」と語る。戦火を生き延びた生徒と教師が手を携え、焼土の上に学校を築き、共に学び合った時代を懐かしむ。

新田 重清氏

 元沖縄考古学会長の新田重清(89)は5期。糸満高校で教えた若い教師の1人であった。

 1932年、兼城村(現糸満市)賀数で生まれた。糸満高校で学び、琉球大学に進学。55年4月、母校に赴任した。22歳であった。

 新田は、糸満高校創立50周年記念誌「潮」に寄せた回顧録に「あまり年齢差のない純真な生徒達と楽しい日々を過ごした思い出がある」と記している。

 沖縄考古学の基礎を築いた多和田真淳に師事した新田は教職と並行して貝塚や遺跡を調査した。糸満高勤務時も生徒と共に貝塚を調べた。

 「クラブ活動ではよく生徒を引き連れて学校周辺の山や畑地を歩いていた。その中でも1958年頃だったと思うが、兼城貝塚(縄文後期、今から約3500年前)の発見は強烈な思い出として今も深くのこっている」(創立50周年記念誌「潮」)

 新田は浦添高校勤務時の69年、郷土史研究クラブの生徒と共に浦添貝塚を調査した。この調査で九州と沖縄の交流を示す「市来(いちき)式土器」を発見し、注目された。

 教師と生徒が共に学ぶ中で貴重な研究成果が生まれた。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)
 

 【糸満高校】
 1946年1月 開校(16日)、首里分校設立(27日、3月に首里高校独立)
    3月 真和志分校設立(9月に首里高校と合併)
    5月 久米島分校設立(48年6月に久米島高校独立)
  56年4月 定時制課程設置(74年に廃課程)
  88年6月 県高校総合体育大会で男女総合優勝
 2011年8月 野球部が夏の甲子園に初出場
  15年3月 野球部が春の甲子園に初出場

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