[日曜の風・吉永みち子氏]「違いを認め合う」とは 自民党総裁選


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吉永みち子 作家

 いやはや、すさまじい分量の総裁選報道からやっと解放された感が強いこの週末。週明けからは人事でまた盛り上がるはず。本当にどんだけ政局と人事が好きなのか。なぜ菅政権が倒れたのかなど見事に忘れて、何となくこれで自民党は変わったという空気だけが生み出された気がする。メディアも自民党広報なら忖度(そんたく)もクレームもないから何だか楽しそうにはしゃいでるねと言われたが、断固否定できないのがつらい。

 時を同じくして、ドイツでも選挙が行われ、どの党も過半数に達せず、どこと連立するのかで混乱している模様。前の選挙でも中道右派と中道左派の大連立まで5カ月もかかって、その間メルケルさんが首相の座にあり続けたが、今回も引退を表明しているメルケルさんが連立決定までは辞められない。

 党総裁選とは重みが違うが、過半数を取れずにどことどこがどう組むかという点に関して、日本とドイツの違いを興味深く見ている。4人の候補で争われた総裁選では、自民党の幅の広さと多様さとか言われたが、予想通り最初の投票で誰も過半数取れずに決選投票。が、その前に既に裏で票のやり取りは完了済みで、票読みとほぼ一致の結果。幅の広さは違いでもあるはずなのに、長老たちがうごめき、乗りたい勝馬探しの結果、瞬く間に岸田文雄新総裁決定だ。ルールのあるスポーツのごとくノーサイドで全員野球にすんなり移行って、爽やかというより私にはとっても不思議である。

 違いをしっかり受け止め、その中で一致点を見つけ出して前に進むには、悩み苦しむ過程が普通はあると思うのだ。ドイツはそのために5カ月も国民を待たせた。国民も待った。

 日本ではできないことのような気がする。違いにこだわって、とことんすり合わせる困難さをスルーして、違いを丸め込んでとりあえず仲良く一緒に全員野球しましょうねって、本当に幅があったのか違いを認め合っているのかいささか疑問。総裁選も衆院選もにぎやかなお祭りで、祭りが終われば全てチャラにしてしまう。我々も今更過去のこと言ってもねえと諦めていく。だから根本が変わらず、毎回同じことを繰り返す。繰り返しながら国も人間も少しずつ劣化していくのが悲しい。

(作家)