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偉人に感銘、医師の道へ 言葉に苦労し押し黙る日々 大仲良一氏、金城正篤氏 糸満高校(3)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
8期生の卒業記念に設置された校門(創立60周年記念誌「世紀の潮よるところ」より)

 学生の頃、図書館で読んだ本が人生を決めた。沖縄セントラル病院理事長の大仲良一(86)は糸満高校の8期である。

 1935年、兼城村(現糸満市)賀数で生まれた。兼城国民学校に通い、44年に母や弟と熊本へ疎開した。那覇の児童らを乗せた対馬丸が米潜水艦に沈められたことを後に知る。命の貴さが身に染みた。

大仲 良一氏

 帰郷後、兼城初等学校、兼城中学校を経て糸満高校に入学した。ガリ版教科書を生徒同士で貸し借りしながら学んだ。粗末な校舎での勉学に苦労した。

 「コンセット校舎は夏は暑いし、冬は寒い。雨の日はうるさくて先生の声が聞こえない。台風のたびに茅葺き校舎の屋根が吹き飛び、何度も茅苅りをした」

 校舎を建てるための資材調達も生徒が力を貸した。「石をハンマーで割る作業で、手に豆ができて痛い思いをしたのを覚えている」と大仲は語る。

 53年、糸満高校を卒業。南部地域の畜産振興に尽くした獣医師の父を継ぐため、日本大学獣医学部に進んだが、後に進路を変える。

 「アフリカの貧しい人々のために医療活動をしていたシュバイツァーの伝記を新宿の図書館で読んだ。感銘を受け、父に『自分も医師の道を志したい』と許しを求めた。父からは『君の将来の道は、自ら熟慮の上決めなさい』という返事があった」

 大仲は久留米大学医学部に入学し、脳神経外科医となった。鹿児島県与論島の診療所で、島民7000人の医療を支えたことが貴重な経験となった。71年に帰郷し、那覇市内の病院での勤務を経て、73年に沖縄中央脳神経外科(現沖縄セントラル病院)を開院した。

 「1日に何百人もの患者が来た。病院に入りきれず、外にござを敷いて待っている人もいた。立って昼食を取るような状況。よく体が持ったと思う」

 開院から48年。沖縄セントラル病院は国際医療ボランティア団体AMDAの沖縄支部を担っている。シュバイツァーの影響を受け医師となった大仲の医療活動は世界に広がっている。

金城 正篤氏

 大仲の同級生に東洋史・沖縄近現代史を研究してきた琉球大学名誉教授の金城正篤(86)がいる。

 1935年、兼城村(現糸満市)潮平で生まれた。45年4月の米軍上陸の直前、集落近くにある「潮平権現の壕」に避難し、6月中旬に米軍に捕らわれ、現在の金武町中川に置かれた収容所に送られた。

 戦後、兼城初等学校、兼城中学校を経て、糸満高校に入学した。言葉に苦労したという。

 「中学、高校の頃まで、家では方言。やまとぅぐちを使ったことはなかった。ところが学校では標準語励行。罰則はなかったが、やまとぅぐちを使うよう勧められた。うまく表現ができず、押し黙っていた」

 2年の時、軟式テニス部に入部した。男女合わせて部員は10人程度。グラウンドに電線でラインを引いて作ったコートでボールを追った。ラケットの修繕は、漁業の町らしくテグスを使った。

 「中古のラケットが5、6本。ボールは2、3個。コートの隣の芋畑にボールが飛んでいったら、見つかるまで試合は中断する。涙ぐましい時代だった」

 高校3年になり受験勉強に励んだ。進学の動機は「農業から逃れたいという素朴な気持ち」だった。

 金城は琉球大学に合格。その後、国費学生制度で千葉大学史学科で4年間学んだ。首里高校定時制で教職に就いた後、京都大学大学院に進んだ。67年に琉球大学に採用され、研究者の道を歩んできた。「沖縄県史」や「歴代宝案」の編集事業にも関わってきた。

 最近の日課は子どもたちの新聞投稿を切り抜くことだ。「平和や沖縄戦のことで、どのような意見を持っているか知りたい」と語る。シンプルなメッセージに平和への意思を感じるという。

 金城の手元には同窓生の動静を記した名簿がある。金城は名簿作成を担当してきたという。3年前まで同窓会も毎年開いた。

 「今、思うのは同級生の絆の強さだ」と金城は語り、高校時代を懐かしむ。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)
 

 【糸満高校】
 1946年1月 開校(16日)、首里分校設立(27日、3月に首里高校独立)
    3月 真和志分校設立(9月に首里高校と合併)
    5月 久米島分校設立(48年6月に久米島高校独立)
  56年4月 定時制課程設置(74年に廃課程)
  88年6月 県高校総合体育大会で男女総合優勝
 2011年8月 野球部が夏の甲子園に初出場
  15年3月 野球部が春の甲子園に初出場

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