<未来に伝える沖縄戦>「湖南丸」乗船の兄失う 戦後も食料難、マラリアにも 大城春子さん


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 羽地村(現名護市)真喜屋で生まれた大城(旧姓島袋)春子さん(88)は1945年4月1日に米軍が本島に上陸する前、家族で北部の山奥に避難します。6月23日の日本軍の組織的戦闘の終結も分からないまま、米軍に投降を呼び掛けられる7月まで、山中での生活が続きました。大城さんの話を寄宮中学校3年の城間奏生さん(15)、浜田結衣さん(15)、東内原美優さん(14)が聞きました。

優しく平和の尊さを語る大城春子さん=9月24日、那覇市

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 《大城さんは1933年1月18日に羽地村真喜屋で10人きょうだいの次女として生まれました。1939年に稲嶺尋常高等小学校に入学します》

 わが家は次から次へと子どもを授かるので、幼いころに母の肌に触れて眠った思い出はありません。父方の祖母がよく面倒を見てくれました。祖母は神人のような感じでよく拝みに行っていました。その時に持っていったごちそうをくれるので、たくさんのきょうだいで何個にも切り分けて食べていました。楽しく幸せな日々だったと思います。

 《3年生になるころには戦争の気配が色濃くなってきます。43年に鹿児島に向かう「湖南丸」が米潜水艦の魚雷を受けて沈没します。乗船していた兄の弘進さんが亡くなります》

 学校では、授業よりも足並みをそろえて運動場を回る分列行進の練習ばかりしていました。校舎の周囲に避難壕を掘る作業も始まりました。記憶が定かではありませんが、下級生は土などを運び、上級生が掘っていたと思います。43年12月に三男の弘進(当時16歳)が予科練に行くため乗っていた「湖南丸」が撃沈されました。後から知ったのですが、知らせを受けた母は、家の前を流れる用水路に顔を付け、「冬の海はいかにあるだろう」と語り、兄の最期を思い、涙を流していたそうです。
 44年8月には対馬丸が魚雷攻撃を受けて沈没しました。周囲には乗船していた人も多くいました。そのころになると、戦争がやってくる恐怖の気持ちも芽生えてきました。ですが、日本が負けるとは思いませんでした。万が一思っていても、負けるかもという言葉は口にできる状況ではありませんでした。

※続きは10月13日付紙面をご覧ください。