1944年10月の10・10空襲は、中村吉子さんが暮らしていた玉城村(現南城市玉城)の前川集落の住民にも衝撃を与えます。空襲後、住民は雄樋川沿いに避難壕を築きます。
45年3月末、現在の八重瀬町港川沖に米艦隊が現れ、砲弾を撃ち込みます。出産した姉を見舞うため隣の集落を訪ねていた吉子さんと母カマさんは帰り道で米軍の砲撃に遭います。母の証言を息子の陽一さん(67)=西原町=が記録しています。
《いつも通る農道はグラマンの機銃掃射に遭う危険があるからと、わざわざ川沿いの道を選んで歩いていたら、港川方面から突然アメリカの軍艦の迫撃砲が撃ち込まれてくる。
うろたえるおばあさんの手を強引に引っ張り、岩陰に身を潜めた瞬間、まさに目の前に砲弾が撃ち込まれてきた。あの時、自分がうろたえずに弾の来る方向を見極めて岩陰に身を潜めていたから死なずに済んだ。》
軍属だった吉子さんは迫撃砲の性格を知っていました。
《おかーは軍属の作業で出会った兵隊に迫撃砲(ポンポン弾と言っていたらしい)の性格を教えてもらっていた。ポンポン弾は直線上を連続で撃ち込んでくるので、一度始まったら直線を外れることはない。》
迫撃砲から逃れた母の体験について陽一さんは「自分にこんなに正確、的確な行動ができるだろうか」と記しています。