中隊長が住民へ「生き抜いて」 中村吉子さんの体験 母の戦争(11)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
南城市玉城の前川集落から見た那覇市街地

 1945年4月1日、沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍は日本軍と激しい戦闘を展開します。浦添の城間、安波茶、仲間、前田、西原の幸地を結ぶ日本軍の「第2防衛線」で4月末以降、激戦となり、日本軍は後退を余儀なくされます。

 南部への戦線拡大が濃厚になった頃、中村吉子さんのいた玉城村(現南城市玉城)前川の一帯に駐屯していた日本軍の中隊長が住民を集めて演説をしたといいます。吉子さんの証言を基に、息子の陽一さん(67)=西原町=がその内容を記しています。

 《中隊長は「われわれ兵隊はいよいよここが腹切り場所となった。われわれは死ぬ覚悟はできているが、住民は死ぬことはない。どこまでも生き抜いて戦後復興に備えよ」と言った。また、「米軍は捕虜を殺したりしない」とも言ったらしい。

 おかーはこの中隊長の話が頭に入っていたので、捕虜になることはあまり怖くなかったらしい。》

 陽一さんは「このような中隊長が軍司令官であれば、戦線を南部に拡大した無駄な戦いをすることはなかったかもしれない」と考えています。

 5月末、与那原方面から進攻した米軍は6月初旬、前川付近まで迫ります。

 《前川に布陣していた球部隊(第32軍)は糸満方面に移動することになった。おかーは軍属として所属している部隊の炊事班となり、軍と行動を共にすることになった。》