負傷の小隊長置き去りに 中村吉子さんの体験 母の戦争(12)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在の糸満市真栄平の集落

 中村吉子さんは、米軍が迫る玉城村(現南城市玉城)を離れ、炊事担当の軍属として球部隊(第32軍)と行動します。息子の陽一さん(67)=西原町=は吉子さんの行動を記録しています。

 《糸満方面に移動を始めて、具志頭の与座、仲座あたりに差し掛かった頃、自分たちの部隊の近くに艦砲弾が着弾しました。吹き飛んだ土砂に全員埋まってしまい、どこに誰がいるのか分からない状況になりました。自分は持っていた風呂敷包みで頭を覆いながら伏せたので大けがはなかった。この時はほとんど負傷者はなく、高嶺付近の壕に布陣して戦うことになった。》

 この戦闘で球部隊の小隊長は重傷を負い、壕に運ばれてきます。その後、吉子さんは担架に乗せられた小隊長と共に現在の糸満市真栄平付近の壕に移動します。吉子さんは小隊長の看護をしていました。そこに米軍が近づきます。

 《伝令の兵隊が来て、この壕には近々アメリカの戦車が火炎放射器で攻め込んでくるので、今すぐ待避するようにと伝えられた。大慌てで炊事班の自分たちが出ていこうとした時、奥の方から「一緒に連れて行ってくれ」という声が聞こえる。
 この声が耳に残って離れなかった。この声は小隊長としてではなく、1人の人間として振り絞った声だったに違いない、と言っていました。》

 その後、吉子さんは部隊を離れ、1人で行動します。