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十月忌 見えなくても「そこにある」…大城立裕さんの首里城と普天間<沖縄発>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

written by 与那嶺松一郎

 

♪首里城の空かけていく 若たかのよう われら
城西の子はきたえよう 強い体に勇気と知恵を

 龍潭のほとりに位置する那覇市立城西小学校、その校歌の2番の歌詞である。城西小は守礼門の並びに校門があり、王家の拝所であった園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門と塀1枚を隔てて接する。太平洋戦争中に日本軍が首里城下に堀り巡らせた32軍司令部壕の出入り口(坑口)跡も敷地内に残っている。校歌に歌われるように、首里城の懐に抱かれた小学校といっていい。

 さて、問題です。この城西小校歌を作詞した人物は誰でしょう。
 

守礼門の並びにある城西小学校の校門

■校長の要請にかみつく

 答えは、大城立裕さん。沖縄がまだ米国の施政下にあった1967年、小説「カクテル・パーティー」で沖縄出身者として初めての芥川賞を受賞した、沖縄を代表する作家である。

 首里に住まいがある大城さんの子が城西小に通っていた縁から、新しい校歌の作詞依頼が舞い込んだという。首里城のお膝元にある城西小の校歌であり、大城さんが「首里城」の一節を盛り込むことに何ら違和感はない――、はずである。だが、校歌制定当時は今とは少々勝手が違った。

 現在の城西小校歌が制定されたのは大城さんが芥川賞を受賞する前年、1966年のことであった。1945年の沖縄戦で米軍の攻撃目標となった首里城は跡形もなく破壊され、校歌制定当時、そこに存在していなかった。代わりに跡地には琉球大学のキャンパスが広がっており、大学をどけて首里城を再建するという機運も乏しい時期であった。

 そのような時に、大城さんの歌詞に対する周囲の反応はどうであったか。琉球新報地方面で連載していた「校歌探訪」(2010~2018年)の城西小の回に、校歌制定を巡る当時のやりとりが描かれている。引用しよう。

 「作詞は芥川賞作家の大城立裕さんが手掛けた。当時、自身の子どもが同校に通っていたことから依頼を受けた。そのころ首里城は沖縄戦で焼失していたが、2番に『首里城の空かけてゆく若たかのよう』と盛り込んだ。すると校長から電話があり『首里城はないから省いてくれ』と変更を命じられた。大城さんは立腹し『首里城を教えないで首里の学校の教育ができますか』とかみついた。結局『首里城』の文言は残ることになった。」

(2012年12月16日付)

 城西小の校歌から「首里城」の文字は危うく消されそうになったというわけだ。だだ、歌詞の変更を求めた校長にかみついたという逸話はいかにも大城さんらしい。好奇心旺盛でひょうひょうとしながら、納得のいかないことには頑として譲ることがない、沖縄の文化人らしい超然とした態度が思い浮かぶ。

首里城公園内にある国指定史跡の記念碑。後方には、同地に琉球大学があったことを刻んだ記念碑もある。

■アイデンティティーの見つめ直し

 明治政府による琉球処分(琉球併合)以降、日本本土に比べて政治も経済も遅れているという劣等感を抱え、差別の対象となる南島独特の言葉や文化を卑下した沖縄の人々。琉球国王の居城であった首里城もかつての威容を失い、朽ちていくばかりであった。

 そうして日本人になろうと懸命に努めたウチナーンチュだが、本土防衛の時間稼ぎの地上戦で多くの命と財産を失い、敗戦後は「祖国」から切り捨てられる。多くの県民がアイデンティティーの喪失感を抱えながら、焼け野原の中で日々の生活の糧を得ていくことに懸命となっていく。

 県民自身が目を背け、忘れ去られようとする首里城だったが、琉球・沖縄の歴史に造詣が深い大城さんにとって、ウチナーンチュのアイデンティティーの問題として郷土の歴史文化の忘却を見過ごせなかった。

 「首里城を教えないで首里の学校の教育ができますか」

 大城さんの中で、そこに存在はしなくとも時間を超えてそこに首里城はあったのだ。

 校歌の制定後、アメリカ世からまたヤマト世へという世替わりを経て、首里城を取り巻く環境は大きく変わることとなる。復帰当日の1972年5月15日に、首里城跡は国指定史跡となる。日本復帰に際して国立大学に移管されることとなった琉球大は、現在の西原町へのキャンパス移転が始まる。「祖国への復帰」の要求を苛烈な米軍支配から脱する原動力としてきた沖縄県民だったが、いざ日本の中の沖縄となったことで、独自の歴史や文化を見つめ直すアイデンティティー再構築の機運もにわかに広がっていった。

 そして復帰から20年という節目に合わせた国の目玉事業として、首里城復元のプロジェクトが動き出す。城西小校歌の制定から26年後の1992年、復元されたぴかぴかの首里城正殿が県民の前に姿を現すこととなった。

 大城さんはどんな思いで再建の日を迎えていただろうか。校長の頼みを突き返して「首里城」の文字を校歌に残したことを誇らしく思い返し、一人悦に入っていたのではなかったかなどと想像する。目に見えないものを信じる文学者の面目躍如といっていい。
 

再建された首里城を見ようと、約5万人の人出でにぎわった首里城公園の一般公開=1992年11月3日

■普天間よ

 「なぜ普天間がわれわれにとって問題かといえば、やはりアイデンティティーの問題だろう。基地によって奪われた自分を取り返そうということだ。あの土地から追い出された、取り戻したい。飛行場の中に入って『鼈甲(べっこう)の櫛(くし)』を見つけにいこうとするおばあさんがそれだ」

 首里赤平町から汀良町にかけて住宅街の上り坂を息を切らして上っていくと、大城立裕さん宅が見えてくる。大城さんは大手出版社の編集者たちに請われても東京に拠点を移すことをせず、生涯沖縄の地にこだわって創作を続けた。私は文化部に在籍していた2010年代はじめに、原稿依頼のやりとりなどで大城さんの仕事場でもある首里の自宅に何度か足を運んだ。

 最初に訪れたのは2011年6月、新潮社から短編集「普天間よ」を刊行するということで申し入れたインタビュー取材だった。政治的に抑圧された状況を直接的に文学で描くことに批判的なことで知られた大城さんが、なにゆえ移設・返還問題で揺れる「普天間」を真っ正面から題材にしたのか。そこにはいかなる心境の変化があったのかと聞いてみたかったのだ。

 そんな私の思惑を見越したような大城さんの答えが、普天間を政治問題ではなく、「アイデンティティーの問題」として小説にしたという冒頭の発言であった。
 

約3千本の見事な琉球松が並んでいた宜野湾街道。首里と普天満宮を結ぶ参詣道だった。撮影地は現在、米軍普天間飛行場の中にある=1917年

 「普天間よ」は、新聞社に勤務する20代女性の「私」が主人公。宜野湾市普天間で祖母と両親と3世代で暮らしている。米軍基地の存在や米軍機の騒音は理不尽なものだと理解はしながら、生まれた時から広がる風景として受け入れながら日々の暮らしは続いている。沖縄ではどこにでもいるような、市井の人々だ。そんな日常を送る中で、王国時代からの家宝で、米軍上陸前に土に埋めてきたという「鼈甲の櫛」を取り戻すため、現在は普天間飛行場として接収されてしまっているかつての新城集落に入りたいと祖母が訴える。祖母の願いに主人公たちは当惑し、家族の中にちょっとしたさざ波を立てていく。

 米軍の事件・事故や移設問題が起きるたびに、沖縄社会には基地の撤去を求めて怒りが充満する。だが、基地から生活の糧を得る人もいるなど、基地反対の理想は〝矛盾〟や〝欺瞞〟を突きつけられて懊悩し、現実のより戻しに襲われる。「普天間よ」の登場人物たちも、戦前を知る祖母の強さとの対比を通じて、現実に流されることの後ろめたさや葛藤の感情を垣間見せる。その一方で、沖縄社会は無力感にうちひしがれることを繰り返しながら、やはり何かの弾みでは世代を超えて抵抗が立ち上がってくることも歴史は示してきた。

 「カミュのエッセー『シジフォスの神話』に、山を転げ落ちてくる岩をいくら押し上げても押し上げても相変わらずという、ギリシャ神話のシジフォスの話が出てくる。無益で希望のない徒労の例えだが、私はその逸話を沖縄の戦いに絡めて、いくら岩が転げ落ちてきてもなお不条理を押し上げていくという逆の解釈をしたい。これまでの沖縄の戦いを見てくると、それを教えられるような思いがするんだな」。自宅でのインタビューで、大城さんはそう語った。

 85歳にして「普天間よ」の筆をとったのには、やはり沖縄の政治状況を巡って思うところの変化もあったのではなかっただろうか。
 

大城立裕著「普天間よ」(新潮社)

■シジフォスの岩

 「普天間よ」で主人公は、母親が師範を務める教室で琉球舞踊を習っている。物語の最終盤、コンクールに向けた稽古中に舞踊教室の上空をヘリコプターが低空で旋回する場面が描かれる。爆音はテープレコーダーから流れる歌三線をかき消してしまう。「コンクールの会場では、こんなことはあるまい」と普天間飛行場の周辺に暮らす我が身の不条理を呪いながら、主人公は爆音の中でこれまでに何百回も稽古した身体感覚を頼りにひたすら踊り続ける。やがてヘリが去り再び歌が聞こえてくると、踊りと楽曲が寸分違わずぴたりと合っていた。印象的な場面である。

 故郷の土地に戻れない祖母と同様に、本来は一体であるはずの歌三線と踊り手とが切り離されてしまう。それでも爆音はいつしか去り、歌三線と踊り手は再び一つに戻る。フェンスによって遮られた土地と人間の関係も同じだろう。生まれ育った場所を戦争で追われ、戦後は米軍に占拠されて戻れない。だけど、還る故郷を忘れなければ、いつの日かその土地に人が戻る時は来る。

 見えないけれど、届かないけれど、私たちのアイデンティティーはそこにある。かつての土地を取り戻すまでの時間は、1人の人間が生きられる時間を超える長さになるかもしれない。それでも大城さんが子どもたちへの校歌に込めた「首里城」のように、「鼈甲の櫛」が眠る場所にも世代を超えて受け継がれるウチナーンチュの見えざるアイデンティティーが託されている。
 

「普天間よ」の刊行に当たってのインタビュー取材に答える大城立裕さん=2011年6月7日、首里汀良町の自宅で(撮影・渡慶次哲三)

 今年も沖縄に「十月忌」が巡ってきた。

 2019年10月31日未明、首里城正殿や北殿、南殿を中心に火災で焼失した。平成の復元事業から27年。首里城は一夜にして再び灰燼に帰した。

 ほぼ1年後の2020年10月27日、大城立裕さんが永眠した。享年95。同年5月にも著作の刊行があり、最期まで創作の意欲は衰えず第一線で筆を執り続けた。

 大城さんが首里城の「令和の復元」を見ることはかなわなかったが、県民に限らず多くの人々が焼失に心を痛めた現在、大城さんの思いは次の世代に受け継がれてもう一度首里城が姿を取り戻していくことは間違いない。一方で、米軍普天間飛行場の問題は、いまだ出口の見えない隘路(あいろ)が続く。岩の重みに耐え、山頂へと押し上げるシジフォスの歩み。山頂にたどり着いたと思った途端、やはりまた岩は崖下に転げ落ちることを繰り返すのだろうか。

 最後に大城さんがインタビューで語った言葉を再掲して、つたない文章を締めくくろう。

 「沖縄がヤマト(日本政府)の言うことを聞くことは簡単でしょう。そうすれば閉塞から抜けられる。でもそれは将来的になお抜けられなくなるのが見えている。だから沖縄はどこまでも頑張るしかない。私が生きているうちには片付くまいが、にもかかわらず頑張るしかない」
 


与那嶺 松一郎(よなみね・しょういちろう) 1977年那覇市生まれ。2000年入社。中部報道、政治部、文化部、経済部などを渡り歩き、19年から経済部長。趣味は映画鑑賞。最近感動したのは娘と見た「ドラえもん」。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。