米兵、ドラッグ、ヤクザ…そしてオキナワンロックな70年代コザ<映画「ミラクルシティコザ」への道>2


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 2022年1月に沖縄県内で先行公開される映画「ミラクルシティコザ」(平一紘監督)の魅力に迫る連載の第2回ゲストは、作品に登場するバンド「IMPACT(インパクト)」のモデルとなったロックバンド「紫」(1971年結成)のオリジナルメンバーのジョージ紫さんと、劇伴(映画の中で使われる伴奏音楽)を担当し、解散・再結成を経た現在の紫のメンバーでもある・Chris(クリス)さん。平監督が案内役を務め、「音楽」をテーマに、劇伴のこだわりや70年代の思い出を語ってもらった。

劇中バンドのモデルが見ると

ポーズを決める左からクリスさん、ジョージ紫さん、平一紘監督=沖縄市のセブンスヘブンコザ(喜瀨守昭撮影)

 「映画のミラクルシティをご覧になっていかがでしたか」

クリスさん

クリス 「『めっちゃ映画だ』と思った。言い方ちょっと悪いけどなんだろうね。俺は制作にも関わらせていただいているんで何回も見ているけど、『何回でも見られる』と素直にそう思った」

 「通常1回しか映画は見ないけど、クリスさんは劇伴を作ってくれる作曲家として入っていただいて、何回も本編を見てくれている。僕もやっぱり監督なんで最低50回くらいは(上映までに)見ているけど…おもしろかったです」

クリス 「前半の流れ、コミカルな部分からのシリアスなシーンへというギャップというか、全体の流れが好き」

ジョージ 「僕はもともとSFっぽいのが好きなので、宇宙が題材とかではないけれど、人物同士が入れ替わって、それだけじゃなくタイムスリップするのが良いアイデアだと思った。コミカルな部分もいっぱいあって、僕も笑って見ていた」

クリス 「試写会で俺の後ろに(ジョージさんが)いて、ふふふ、と笑い声が聞こえていた」

 「笑ってもらえてうれしいです」

高校生を捕まえるため機動隊出動

ジョージ紫さん

 「『ミラクルー』では1970年代のコザに主人公がタイムスリップして、その時代に生きる祖父でロックンローラーのハル(桐谷健太)とさまざまな体験をします。劇中の1970年代(のコザの様子)はどう感じましたか」

ジョージ 「暴力団が(バンドを)囲い込むというか、金を巻き上げていたなんていうのは、確かに少しはあるんですよ。ロックバンド『紫』を結成する前の、城間兄弟(城間俊雄・正男)がやってたバンド(「ピーナッツ」)は、ちょっとそういう感じかな。完全に裏の人間じゃないけど半分そこにいるような人がマネージャーをやっていたから。その辺もあって、(城間兄弟を)紫に誘うときには、向こうと手を切ってから来るように言った」

 「映画の中では、岸本尚泰が演じる火元というヤクザが主人公バンドIMPACT(インパクト)に、ギャラを要求する場面がある。ジョージさんもそういう反社会的な人との関係でピンチになることはあったんですか」

ジョージ 「紫のコンサートはとても金がかかっていた。あの人たち(反社会的な人たち)は簡単に(コンサートは)できるものだと思っている。最初、人気が出たとき、そういう話(ギャラの要求)をしようと紫にも近寄ってくるのがいたみたい。でも、(コンサートでお金をほとんど使っていたから)そこまで(恐喝されるところ)はいかなかった」
 

平一紘監督

 「映画では70年代にタイムスリップする。ジョージさんが、コザが盛り上がってきたなと感じたのはどれくらいの時期でしたか」

ジョージ 「紫を結成した1969年から(盛り上がりが)あった。僕らが演奏するクラブは、外国人のお客さんがどんどん入ってきて、どこもいっぱいで、最終的に僕らは自分たちのライブハウスをやろうとなった」

「『チャンピオン』というクラブが中央パークアベニュー(旧センター通り)にあって、72~73年まで紫が地元バンドとして初めて専属契約を結んだ。チャンピオンは平日は午後8時から午前0時の営業だけど、週末は午前5時、6時までやっていて、バンド全体で当時のお金で月120~150万円ほどもらっていた。でもその後僕らは自分たちのライブハウスを経営することに決めた。(専属バンドをしていた時期に)ロックフェスティバルが万座や泡瀬などあちこちで開催されていて、それに出演したかったから。専属バンドだと、フェスが行われている夜は仕事で出たくても出られなかった。もっとたくさんの人の前でやりたいよなと、パークアベニューの真ん中にライブハウス『クラブタイガー』をオープンした」

「タイガーにはどんどん地元の若い子もくるようになって、土曜日の夜なんか高校生だらけ。だれが密告したのか、機動隊がバスで店に来て(高校生たちを)補導しに来たこともあった。裏口からお客さんを逃がしていたが、捕まっていたのもいたな」

クリス 「高校生捕まえるために、機動隊が来るって今では考えられない話。(映画の中にもは)チビ(宮永永一)が昔テレビでこんなこと言ってたよなーみたいな、いろんなエピソードがうまく使われていた」
 

日本と思えない!70年代のコザの日々

ゲート通り入り口近くにあったライブハウス「フィルモアウェスト」で乱闘する米兵たち=1979年ごろ(所蔵:沖縄市総務課市史編集担当)

 「(台本を書いていて)基本的にやっぱり嘘を考えるよりも昔のジョージさんやチビちびさんの話を聞いたりとか、ロックの本を読んだエピソードの方がおもしろかったです。事実は小説よりも奇なりではないですけども」

クリス 「本当にこの人たち、フィクションみたいな話がいっぱいあるからすごいよね」

ジョージ 「深夜に営業しているとき、反社会的な感じの人が受付にきて、受付の人をぶん殴ったり怪我させたけど、深夜営業だから警察沙汰にできないなぁ、ということもあった。ときには黒人の兵隊さんと喧嘩になって、そしたらチビなんか出てきてやっつけたり」

 「紫では、誰が一番けんかが強かったんですか」

ジョージ 「城間兄弟もそうだしチビも強かった」

 「そんな荒くれのお客さんとメンバーをどうやって、ジョージさんはまとめていたんですか」

ジョージ 「音楽的な面でみんながリスペクトしてくれていたからね」

 「ライブをしていない時間は、何をしてたんですか」

ジョージ 「僕はクラシックの勉強をしていたころから、1日8時間とか10時間 とか、練習をしている。ロックバンドを始めてからもいろんな(バンドを)コピーするなど、練習に当てていた」

1971年にコザ市内で撮影された麻薬類の値段表(吉岡攻氏撮影)

クリス 「でも、野球とかして、結構外で遊んだりしていたんですよね」

ジョージ 「僕は加わっていないけど、確かにファンの方たちと作った野球チームはあった。チビはボールのスピードはあるけど、ノーコンだったなぁ」

 「クリスさん、紫のメンバーでこの人たちすごいなとか、破天荒だなというエピソードはありますか」

クリス 「会話がすでに…。紫のメンバーのチビとか比嘉清正さん とか『当時、誰々が薬で捕まって逃げて』みたいなことを普通に話しているから」

 「日本の話とは思えない」

ジョージ 「それも(沖縄)方言でしゃべってるからね、とくにあの2人は」

クリス 「ネイティブな沖縄語でね。映画だとコザ暴動を思わせるシーンの描写も好きだった。(ジョージさんは)それ(コザ暴動)をリアルに知っている」

ジョージ 「僕は(コザ暴動のとき)、今のミュージックタウン付近にあった知り合いが経営しているスナックにいた。外に出たら、150メートルもないくらいところに群衆が迫っていた。Eナンバーや黄色ナンバーの車をひっくり返していて、火の手も見えた。新聞などを通して、米軍の事件事故に対して、暴動が起きそうな雰囲気はずっと感じていたから、やばいかなと思った。当時は父から、Eナンバーの白いシボレーを借りて乗っていたから、車に乗って、胡屋十字路を抜けて北中城村の自宅に避難した。朝6時、7時ごろまで待って、プラザハウスの前を通って山内の三叉路までいったら、城間兄弟がキャンパスレコード前にいた。催涙ガスの煙だらけで辺りが臭かったのを覚えている」

ロックとオーケストラと沖縄の民族音楽を融合

紫の店「クラブタイガー」でライブをする「メデューサ」=1976年(所蔵:沖縄市総務課市史編集担当)

 「ジョージさんと音楽との出合いはいつごろだったんですか?」

ジョージ 「父はハワイ生まれの二世で、母は沖縄の人。生まれたら米国領事館に出生届けを出したから、米国のパスポートしかなかった。でも僕らが住んでいたのは民間地域で、周りの友達も普通の沖縄の子どもたちで、僕が一番最初にしゃべったのは沖縄の言葉だった。おじいちゃん、おばあちゃんがハワイから遊びにきたときに、おじいちゃんが「カー」という。沖縄で「かー」は井戸のことだけど、おじいちゃんのいうカー(Car)は車のことだから、なにをいっているんだろうと不思議がったこともあった」

「自分は米国人で学校もアメリカンスクール。でも、日本は4月から学校が始まるのに対して、アメリカの学校は8月から新学期なので、4月から8月くらいまでは、島袋小学校の幼稚園に通っていた。学年的には喜納昌吉さんと一緒で、隣近所だったから、よくチャンバラごっこをして遊んだ」

「母が琉球箏曲をして、父も幸地亀千代さんから三線を習っていたので、僕も少し琉球箏曲を習っていたらしい。8歳の頃、ピアノ教室に通わされるようになった。モーツァルトやベートーベンの伝記を読んでこうなりたいと思うようになり、今日までクラシックを続けている」

「中学生のころ、おじいがハワイから沖縄に引き上げてきた。おじいは毎晩、三線を弾く。それも民謡ではなく大節ばかり。こんなの音楽なのかと思った。高校生の頃には、妹たちがビートルズに狂い始めるけど、こんなのも音楽じゃないと思った。当時(1960年代前半)は、クラシックしか音楽じゃないと思っていた。でも60年代後半、70年代からビートルズの音楽も変わっていき、ジミー・ヘンドリックスも出てきて、ロックも変わっていった。一番影響を受けたのは、イギリスのロックグループ・ディープパープルのジョン・ロードさんが、出したオーケストラとのコンツェルト(協奏曲)だった。今でも、いろんなメタルやロックバンドがオーケストラを用いた曲を作ることがあるが、これらは最初にロックの曲があってオーケストラは後付け。でもジョンの協奏曲は、最初からクラシックの曲があって、ピアノやバイオリンなどの独奏楽器の代わりに、ロックバンドの楽器を置き換えて作られていた」

 「ジョン・ロードの影響を受けて、『紫』の音楽が出来たんでしょうか?」

ジョージ 「ジョンに初めて会ったときに『どこからこのアイデアが出たの?』と聞いたら、『(ニューヨークフィルの指揮者)レナード・バーンスタインが、フィルとジャズグループの融合を試みた作品を演奏しているのを聴いて、ロックもできるのではないかと思った』と言っていた。それだったら、ロックとオーケストラと沖縄の民族音楽を融合させれば自分なりのオリジナルができるんじゃないかなという感じで曲を作り始め、今に至っている」

音で現代と過去を表現

ピースフルラブ・ロックフェスティバル2019でとりを飾る現在の「紫」=2019年7月、沖縄市のミュージックタウン音市場

 「クリスさんが劇伴を作る上で気をつけたことはありますか」

クリス 「気をつけたのは二つあった。まず音楽として成立すること。劇伴は映像もありきだから、絵にはまる音を作らないといけないってのが前提なんだけど、サントラという状態で聞いても音楽として成立するようにした。あと、タイムスリップする話だから、音で現代と過去を分ける努力はしたつもりです」

 「音楽プロデューサーの横澤匡広さんとクリスさんと話して過去と現代で劇伴の音の種類を変えたいと話したが、どうやってやるんだろうって思っていました。実際音を聞いたら、クラブのシーンでも過去と現代で違っていた。昔も知りつつ今も紫で活動しているクリスさんしか作れないものだと思いました」

クリス 「そういう意味では紫にいたっていうのは大きなことかも。70年代当時に、ジョージさんも聴いていた音楽をカバーとかで演奏していて、聴く機会がある。紫をやってないと、ディープパープルも『じゃ、じゃ、じゃー(スモーク・オン・ザ・ウォーターのイントロ)の人ね』で終わっていたと思う」

ジョージ 「クリスがはいったきっかけは、97年、音響会社をやっていた友人が急逝したため、彼のために計画した追悼コンサートだった。リハーサルに時々来られないメンバーもいて、そのときに息子のレイの紹介で来てくれたのがクリスだった」

クリス 「自分が10代のときで、他のメンバーは40代くらいだったと思う。おぼろげに覚えているのは尋常じゃなく緊張していたことくらい」

ジョージ 「彼がいないと今の紫は成り立たない。リスペクトしますよ。映画の音楽まで担当して、彼のためにもいい経験になるし。すごいシーンに合っている音楽を作ったなと思う」

「ミラクルシティコザ」よりライブハウス「セブンスヘブンコザ」でのライブシーン(PROJECT9提供)

 「同作は音楽映画でもあります。桐谷さんも含めて役者のみんなは、過去のインパクトメンバーとして楽器練習なども頑張っていた。そのへんはどうでしたか」

クリス 「違和感なく、キレイにやっていた」

 「桐谷さんは、歌も歌っている方ですが、俳優さんと歌手で歌の違いは感じましたか」

クリス 「(紫の楽曲の)オリジナルは城間正男、今の紫JJ(ジェージェー)が歌っていて、この2人でもカラーは違うんだけど、さらに桐谷さんが歌うことで新しく聞こえた。俳優さんならではなのか、言葉の置き方が違う。俳優さんの言葉の出し方、前に出てくる感じが歌手とは違って、それもまた面白かった」

 「結構エモーショナルな感じというか」

クリス「うん。新しい紫の歌のニュアンスだなと。すごい面白かった。ここのシャウトの感じかっこいい、とかさ」

ジョージ 「話を聞いたとき『桐谷さんがドゥームス・デイ歌うの?』と驚いた。英語の発音とかいろいろあるかもしれないけど、クリスが言っているようにステージで歌っているというようなライブ感が良かったよ」

 「作品では紫さんの『ドゥームス・デイ』や『マザー・ネイチャーズ・プライト』などを使っている。『ドゥームス・デイ』は過去の場面で最初に桐谷さんが歌います。僕は同曲は『ボーカルが最初に目立つ曲かな』と思い入れたのですが、劇伴でのアレンジはどのような点に気を付けたのですか」

クリス 「まずは桐谷さんにキー(歌の高さ)を合わせた。そして、キーを変えると曲のイメージも変わるので、それでも成立するような音作りをした。あと映画では、普段『ドゥームス・デイ』を紫がライブで演奏するときのアレンジを採用している。ライブの一発目でやるとき、最初にエンジンをかける。最初にテンションを上げて、『次の曲に行こうぜ』というような、かきまわし的なものを入れるので、そういう雰囲気を入れた」

 「歌詞も含めて好きなのが『マザー・ネイチャーズ・プライト』。同曲のレコードに書いてあったメモ書きを映画の核心的な部分でも必要な資料として入れている。「昔はすごい美しかった」とか、現代に歌われたときでもすごく歌詞に哀愁を感じる。歌詞も含めて、楽しみにしてもらいたい楽曲ですが、あれは、ボーカルもキーが高かったですね」

クリス 「『マザー・ネイチャーズ・プライト』はオリジナルのキーじゃないと成立しない。キーを落とすとイメージ的には暗くなる。暗くなってもかっこよくなる曲はあるが、『マザー』はだめ。だから、あれはもともとある原曲のイメージをなるべく残した。ライブ感を出しながらもオリジナルに忠実にした。ただ、映像に合わせて1番と2番の描写の仕方を少し変えてみてはいる。同曲こそ、ジョージさんの言っていた、クラシックとロックと沖縄の音楽が融合されている曲だと思う。音楽作りをする立場として、曲の理屈は分かっていても『ああいう曲はかけないよな』と思わされる曲。時代を選ばない曲だと思う」

 「ミラクルシティは、一つの時代だけの話ではないので、音でも過去と未来を描き分けていて、映画でしかあり得ない音楽表現になっていると思っています」

クリス 「現代は自分の今の感覚でかけるが、過去の音をつくるときは『音を省いていく作業』をした。ダンスシーンでいえば、70年代のディスコっぽい音楽をつくりましょうとしたとき、絵面だけをみたとき、頭にうかんだ最初の曲はばっきばきのEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)だった。『ドンズッドンズッ』みたいな。でもシーンは70年代だから、サウンドの質としては、今あるような細かい電子音を抜いていって、シンプルに当時のディスコの雰囲気を出すように意識した。70年代のロックっぽいサウンドも当時に使っていた音をメインに、それこそ紫のようなギターとオルガンが入っているような感じのものを使った。ABBAやアース・ウィンド・アンド・ファイアーとかもものすごく聴いた。後は、70年代と俺が思っていても受け取る人がどう思うかだから、監督含めプロデューサーに聞いてもらうようになるべくした」
 

「ボヘミアン・ラプソディ」並みのインパクト

 「映画を見た方には、桐谷さんがオキナワンロックを歌うというところと、紫さんの楽曲との出合いみたいなやつも劇場の音響設備で体験してほしい」

クリス 「そう。自分が制作しながら聞いているときと、映画館で聞いたときのインパクトが全然違った」

ジョージ 「バンドの名前『インパクト』も笑っちゃった」

 「過去のバンドを、紫さんモチーフだけど架空のものにしないといけないので、最初は名前を『ゲート』にしていた。でもゲートというバンドがあったときいて、紫のセカンドアルバム名でもある『インパクト』にした。

ジョージ 「『ドゥームス・デイ』自体、『インパクト』に入っているしね」

 「紫のメンバーも全員映画に出てくるので、それも楽しみにしてください」

クリス 「映画を見て、紫に興味を持ってほしいいし、音楽が好きな人にも映画を見てほしい」

 「映画は1月に先行公開する。沖縄での、音楽ファン、映画ファン、の熱が県外、世界につながっていってほしいですね」

ジョージ 「全国にいる紫ファンの人は絶対見て。コロナが収束したら、生演奏も聞きにきてほしい」

 「(映画館の)音と映像が合わさって100%になる音楽映画なんでぜひ劇場で!『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)くらいヒットしてほしいです」

ジョージ 「それくらいのインパクトありますよ。何億円もかけている映画じゃないけど、この映画は面白い。みんな観た方がいい」