遺体を踏み、収容所へ 仲村政子さんの体験 母の戦争(21)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子

 仲村政子さん(87)=那覇市=は祖母と共に、玉城村(現南城市玉城)親慶原の自然壕マヤーアブを出て、別の壕に避難しました。場所ははっきりしませんが「ずっと南に行った。縦穴の壕でした」と仲村さんは語っています。マヤーアブは横穴の壕でした。
 仲村さんは、この壕を出て米軍に捕らわれます。
 
《縦穴の壕に入って何日かした後に、「出てきなさい、出てきなさい」という声を聞きました。おじいさんが「両手を挙げて、出なさい」と言うので、壕から出ました。》
 
 壕を出た仲村さんら住民は畑の中に集められました。その時、2人の男性が米兵に撃たれ、殺されたといいます。その後、トラックと徒歩で移動します。さらに船で中城に行き、中城村(現北中城村)島袋の収容所に送られます。

 収容所へ向かう途中、目にしたことを仲村さんは忘れることができません。

 《雨が降って、じめじめした畑の中をおばあさんと一緒に歩きました。どこをどんな風に歩いたか分かりません。おばあさんは持ってきた黒砂糖を私の口に入れてくれました。
 歩いている途中、遺体を踏んでしまうこともありました。死んでいる人をたくさん見てきました。思い出すのも怖いです。》

 戦場で倒れた人を置き去りにしてしまった悲しい記憶を仲村さんは今もぬぐい去ることができません。