支えられ強くなる 地域とつながり障がい児育て<家族になる 里子・里親の今>5


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「生い立ちを理解すれば、障がいがあっても普通の子より強くなるさ」と語る大川聡さん(左)とキヨさん=10月

 「血のつながりが無くても家族として暮らす環境が大事」。そう語る大川聡さん(58)は、母のキヨさん(86)と、2017年に亡くなった妻、初子さんとともに軽度の知的障がいがある波斗さん(16)と、注意欠陥多動性障害(ADHD)や自閉症スペクトラムのある結さん(11)=仮名=を里子として迎え入れ、育ててきた。地域や学校の協力を得ながら「生い立ちを理解すれば、障がいがあっても普通の子より強くなるさ」と、成長を温かく見守り続けている。

 子ども好きだった大川さん夫妻は、20数年前から児童虐待のニュースを耳にする度に胸を痛めていた。一人息子の光さんが高校生になり手がかからなくなったのを機に12年に里親登録をした。その後、児童養護施設の児童を短期間受け入れる週末里親を始めた時、大川さん宅に来たのが当時小学1年の波斗さんだった。波斗さんはよほどうれしかったのか就寝時、夫妻の間でごろごろ転がり、2人の手を握り締めたという。「妻と『受け入れて本当によかったね』と話したんだよ」と、振り返る聡さんの目が潤む。

 13年に波斗さんを正式に受託した後、大川さんの事情を理解した教育委員会や学校が積極的に支援してくれた。波斗さんは言葉を正確に理解することが苦手なため、大らかで楽天的な初子さんが波斗さんのペースで学習をサポートしていた。15年に当時5歳の結さんも受託し、にぎやかになった。ところが、初子さんに乳がんが見つかった。夫婦で「10人ぐらい里子を育てたいね」と話していた夢を残し、自宅で家族にみとられ、17年に旅立った。

 妻を亡くし、落胆する聡さんの姿に波斗さんは「家事とか手伝ってみようと思った」と「父」を支えると決めた。聡さんは「当時は小学6年生で母親のぬくもりが必要なはずなのに、よく頑張ってくれた」と頼もしく感じたという。

自宅に飾ってある波斗さんの絵。聡さんは「波斗は目で見た情報を理解するのが上手なんだ」と得意そうに話した

 初子さん亡き後、波斗さんの学習面が不安だった。小学校は地域の学校に通ったが、行政や教育機関が何度も話し合い、中学は特別支援学級への進学を決めた。聡さんは「波斗は地域の方々に育ててもらっている」と感じたという。

 高校は、自宅から通える高等支援学校を選んだ。里子は18歳になると、里親への委託が解除になり、高校卒業後は独り立ちしなくてはならない。そのため、大川さんは宿舎のある学校の方が自立に良いと考えたが、波斗さんが「施設を思い出す」と、自分で選んだ。

 高校生になった波斗さんは学校で名乗る名字を「大川」から実親の名字に切り替えた。聡さんとの絆を胸に、社会で生きていくための一歩と考えてのことだ。今は聡さんから家庭料理を学び、学校では就業体験を通して社会で生きる経験を積み重ねている。

 卒業後は「アパレル業界で働く夢にチャレンジしてみたい」と目を輝かせる。独り立ちへ向かう波斗さんの姿に、聡さんは「子どもの夢を支えるのが親の役割。不安もあるけど、波斗には頼れる実家がある」と、これからも父として二人三脚で歩んでいく気持ちだ。

(嘉陽拓也)