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戦災孤児が支えた球児…宜野座嗣郎氏 机に毛布を囲って勉強…座間味昌茂氏 糸満高校(5)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1950年代半ばの朝礼風景(創立60周年記念誌「世紀の潮よるところ」より)

 県高校野球連盟顧問の宜野座嗣郎(85)は糸満高校の11期。2年前、日本高野連から長年にわたる高校野球育成への貢献をたたえる「功労者表彰」を受けたが、自身は高校球児ではなかった。「貧乏で畑仕事ばかりだった」という。

宜野座 嗣郎氏

 1936年、フィリピンのミンダナオ島で生まれた。父は麻栽培に従事していた。44年10月、米軍の空襲に遭い、避難生活が始まった。翌年、日本に引き揚げたが、父は神奈川、母と妹は福岡で亡くなった。帰郷した宜野座は親類のいる現在の糸満市新垣で暮らした。

 ミンダナオ島では勉強らしい勉強はできず、2学年下の児童と一緒に真壁小学校で学んだ。宜野座は語る。「戦争で三つを失った。家族、フィリピンで築いた財産、教育の機会だ」

 53年に糸満高校に入学した。畑作業に追われながら勉学に励んだ。進学に理解を示す親類に宜野座も応えた。

 「私は戦災孤児。高校では野球部に入りたかったが親戚に育てられている身だ。畑で働いて、食わなければならない。明るい時間は畑仕事。家に戻り、夜9時から1時まで勉強した」

 3年生の時の担任、生盛孫貞の熱心な薦めもあり、宜野座は教師を目指す。琉球大学に進学し、中学校での勤務を経て、63年に母校の糸満高校に赴任。進路指導に励んだ宜野座は野球と関わる。当時の校長から野球部部長に就くよう求められたのである。

 「在学中は野球ができなかったので、裏方として選手を手助けした」。炎天下で脱水症状を起こさぬよう塩の入った小瓶を救急箱にしのばせた。スポーツドリンクのない時代だ。

 豊見城高校でも野球部長を務めた。監督は糸満高校の後輩、栽弘義だった。75年、野球部は春の甲子園に初出場する。「栽監督はピシャピシャと選手を指導していた。私のことを『兄貴』と呼んでくれた」

 後に沖縄水産高校に赴任。栽が率いる野球部が90年、91年の2年続けて夏の甲子園準優勝を果たした。学校に残った宜野座は野球部が帰郷した時の混乱を防ぐために奔走した。

 県高野連理事を長く務め、94年から2年間、会長となった。「私の野球人生は裏方で頑張った」と話し、穏やかな笑顔を浮かべる。高校球児にはなれなかったが、宜野座の心は、今もグラウンドを駆ける球児と共にあり続ける。

座間味 昌茂氏

 渡嘉敷村長を務めた座間味昌茂(81)は13期である。「戦後間もない時代。糸満も貧しかった。高校周辺の家はトタン葺き。道路は舗装していなかった」と語る。

 1940年、渡嘉敷島で生まれた。45年3月末、米軍が島に上陸。極限状態に追い詰められた住民が命を絶った。座間味も家族と共に惨劇が起きた北山(にしやま)にいたが、父親の判断で直前に現場を離れ、家族は生きながらえた。

 渡嘉敷小学校、渡嘉敷中学校で学び、55年に島を出て糸満高校に入学する。「同級生は28人で、高校に進学したのは8人だった」。同級生の多くはカツオ漁などにいそしんだ。

 離島から入学した生徒は寮生活を送った。「夏は暑くて冬は寒いコンセット小屋の寮だった。部屋の敷居はない。夜は机を毛布で囲って勉強した」と座間味は語る。ご飯とみそ汁という質素な食事で腹を満たした。「ちょっとホームシックみたいになった。夏と冬、島に戻ることが楽しみだった」と語る。B円の時代、5円で6個買えた今川焼きを懐かしむ。

 卒業後、建設会社に勤めた。当時の久志村で進んでいた米軍キャンプ・シュワブの建設に関わった。辺野古には多くの労働者が集まった。「にぎやかで、映画館もあった」。1年ほど働いた後に島に戻り、61年に渡嘉敷村役場に就職した。94年、村長に初当選し、通算2期8年務めた。

 在任中の2012年、中断していた「集団自決」(強制集団死)の村主催慰霊祭を再開した。渡嘉敷島の体験を継承し、平和を誓うという座間味の方針だった。

 「これからも語り継がなければならない」。座間味の揺らぐことのない信念である。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)
 

 【糸満高校】
 1946年1月 開校(16日)、首里分校設立(27日、3月に首里高校独立)
    3月 真和志分校設立(9月に首里高校と合併)
    5月 久米島分校設立(48年6月に久米島高校独立)
  56年4月 定時制課程設置(74年に廃課程)
  88年6月 県高校総合体育大会で男女総合優勝
 2011年8月 野球部が夏の甲子園に初出場
  15年3月 野球部が春の甲子園に初出場

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