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子どものために…屋良氏と問うた「復帰の中身」 沖教組元委員長・石川元平さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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復帰前後の沖縄の状況などについて語る石川元平さん=5日、宜野湾市愛知(ジャン松元撮影)

 空は鉛のような雲に覆われていた。その直前まで降り続いた、バケツをひっくり返したような雨により、はためくはずの日の丸は打ちひしがれるようにしぼんでいた。「ああ…。沖縄が喜んでいない」。1972年5月15日、沖縄返還を糾弾する抗議デモ行進の中にいた石川元平(83)=当時34歳=は強く感じていた。

 県民が求めた「即時無条件全面返還」はかなわぬまま、過重な基地負担という不条理な状況の中、復帰を迎えた。

 「友よ仰げ日の丸の旗、地軸ゆるがせ われらの前進歌、前進前進前進前進、輝く前進…」。復帰闘争の中でよく歌われていた教職員の前進歌はとうに聞こえなくなっていた。

 57年に辺土名高校を卒業後、本島北部で3年間の代用教員を経て、那覇にある教職員会の門をたたいた。総務部付けとなり、当時、会長を務めていた、後に初の公選主席となる屋良朝苗の秘書に任命された。

 働きながら琉球大2部に通い、教員免許取得をと考えていた当初の計画はすぐに頭から消えた。それでも現場に戻れない後悔はなかった。屋良との出会いにより、「一教師になるという思いは沖縄全体の子どもたち、教育のためにという、もっと価値の高いものへ」と変化した。

 主席公選や日本復帰に向けて大きなうねりとなった67年の「教公二法」阻止闘争など、沖縄の教育界にとっても激動の時代となっていた。その運動の中心を担った屋良は晩年、石川にこうつぶやいた。「勝ち取った復帰だったが、県民が求めたものではなかった。石川君、復帰の中身を勝ち取るのは君たちの大事な責務だよ」

(文中敬称略)
(新垣若菜)


 沖縄が日本に復帰して来年で半世紀。世替わりを沖縄とともに生きた著名人に迫る企画の12回目は、元沖縄県教職員組合執行委員長の石川元平さん。初の公選主席となった屋良朝苗氏の秘書も務め、教育界の激動の時代を目の当たりにしてきた歩みと思いを紹介する。

 

(その2)「国のゆがみの修正、沖縄にはできる」戦争体験こそ原点に続く