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「国のゆがみの修正、沖縄にはできる」戦争体験こそ原点 沖教組元委員長・石川元平さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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復帰前後の沖縄の状況などについて語る石川元平さん=5日、宜野湾市愛知(ジャン松元撮影)

(その1)「国のゆがみの修正、沖縄にはできる」戦争体験こそ原点から続く

 「この子は上々の偉い人に引き立てられる運命をたどる。ただし、育て方を誤ると運玉義留(うんたまぎるー)になる」。ある占い師は、石川元平が生まれた時に母・ツルにこう告げた。

■屋良氏の秘書として

 その言葉通りか、1960年、教職員会の会長の屋良朝苗の秘書となった石川は目まぐるしい日々を送っていた。当時付き合っていた彼女(後の妻・吉子)の父は屋良のいとこだった。そのせいか、「屋良先生に引っ張られて、そこになったんでしょ」と職員からからかわれることもあったが、自身は3カ年の学校現場の経験を評価されていると感じていた。

 同年、米国の圧制下から日本への復帰を希求する住民の思いの下、沖縄祖国復帰協議会(復帰協)が結成された。復帰への機運は最高潮に達していた。国語の教員を目指し、那覇に出てきた石川だったが、闘いの拠点となる場に身を置き、「それ以上に価値のある生き方」ができているのだと実感していた。

 そのころ、時の琉球政府は、教員の政治行為などを禁じた教育公務員法と同特例法、いわゆる教公二法の法制度化を進めた。沖縄で戦後最大の“教育闘争”といわれた教公二法闘争が始まる。米政権下で、教員の政治行為を縛る法案は、復帰運動や平和運動、人権運動も全て、アメリカの施政に反対するものは反米的な政治行為とみなされ、処罰の対象となる。教職員会を中心に労働組合なども加わった組織は「復帰運動の弾圧を図るものだ」と猛反発した。数年間にわたる阻止闘争を展開する。

■教公二法阻止闘争

 66年10月24日の屋良の日記には「(前略)二時から中央委員会。教公二法対策。この問題にはほんとうに頭がいたい。如何(いか)にして収拾していくか。私もわからない。この為に教育界の混乱が起こる事を只只(ただただ)恐れ心痛するのみ。今となってはこの心配から沖縄教育界が救われる道は二法案の審議を保留しておく以外にない。真に教育を思う者はここに思いをいたすべきである」と記されている。

 教公二法の採決予定日の67年2月24日、教職員の10割動員、労働団体など2万5千人~3万人が立法院を包囲した。スクラムを組んだ教員らが警官隊に体当たりでぶつかっていく。民衆は次々と立法院内に突入していった。石川もカメラを構え、民衆の中にいた。結果として同二法案の廃案協定にこぎつけた。「立法化されていたら、68年の主席公選もなかっただろう。復帰実現への原動力となった大衆運動が教公二法案の阻止闘争だった」

 包囲闘争では25人の逮捕者を出し、裁判は最高裁まで復帰後も10年以上続いた。廃案から30年の節目の98年、石川が執行委員長を務める沖教組は613ページに及ぶ「教公二法闘争史」をまとめる。石川はその中で「72年復帰の原動力になった」と総括した。

 

海邦国体での日の丸掲揚と君が代斉唱の強制に抗議する沖教祖の石川元平さん(前列右端)ら=1987年3月、県教育庁
初の公選主席となった屋良朝苗氏の当選会見で共に祝う石川元平さん(屋良氏の後方左)=1968年11月

■得衆動天

 翌年の68年2月1日、アンガー高等弁務官が主席公選の実施を発表した。それまで主席の選任は、沖縄を統治していた米高等弁務官による任命制だった。自治権獲得に立ち上がった県民の闘いから勝ち得たものだった。68年4月に革新統一候補として屋良の擁立が決まった。大きな争点は、日本復帰と米軍基地問題。「即時無条件全面返還」を掲げる革新側に対し、本土との一体化を打ち出した西銘順治(当時那覇市長)の保守側は「革新候補が当選すれば戦前のイモとハダシの生活に戻る」と強調した。

 11月10日、住民の高い関心を示す90・58%の高投票率の下、屋良が当選した。拍手と歓声で割れんばかりの様子だった革新共闘会議本部に姿を表した屋良は、右手でVサインをつくり、高く掲げた。歓喜の輪の中でめがねの奥に涙を光らせた。屋良の主席当選後に、ある書家が「得衆動天」と記された扁額(へんがく)を贈った。大衆の力を得れば、天をも動かす―。まさに屋良が進んできた道そのものだと石川は感じた。

 日本復帰が現実的なものになってきた69年、佐藤栄作首相とニクソン米大統領は共同声明を発表。米軍基地を残したままの返還が合意され、沖縄側が求めた「即時無条件全面返還」はほごにされ、県民に失望が広がった。

 

■復帰後も“沖縄方式”

沖縄戦の実相を語る映画の完成を発表する1フィート運動の会。副代表を務めた石川元平さん(左)。中央は福地曠昭代表=2009年3月、那覇市の教育会館

 復帰を前に、沖縄教職員会は71年9月29日に解散。日本本土の法制下での組織運動に備え、翌日の30日、地方公務員法に基づく労働組合に発展移行し、「沖縄県教職員組合」(沖教組)を結成した。石川は総務部長となった。

 日米共同声明路線の返還を糾弾する声の中、72年5月15日、復帰の日を迎えた。復帰後、日の丸はどこにも揚がらなくなった。「捨てた記憶はないが、もうどこへいったかも分からなくなっていた」。復帰について屋良は「若者たちはどう受け止めているのだろうか」と石川に尋ね、亡くなる直前まで気に掛けていたという。政治家ではなく、教育者としてあり続けたいと願う、屋良の思いを感じた。

 教職員会の解散から約2年半後、沖教組は日教組に加盟する。加盟への反発もあったが、最大の組織である日教組との連帯で沖縄の教育を守るんだという意識が多数を占めた。かなわなかった、復帰の中身を勝ち取るという闘いの継続への思いも大きかった。社会党支持の日教組から、加盟後に社会党支持への基本的方針を求められていた。一方で、主席公選に見られるように、革新共闘方式で幅広い支持を受け、屋良主席の誕生に尽力した教職員会。「その形を(沖縄のやり方を)守っていこう」と断り続けた。

■教職員間の分断

 85年8月、文部省(当時)は都道府県・教育長に「日の丸」「君が代」の実施率が低い学校に掲揚と斉唱を徹底させる旨の通知を送った。復帰前には、米政権圧制下への抵抗と自由の象徴として掲げていた「日の丸」は、65年の佐藤首相来沖のころから、県内で徐々に姿を消していた。文部省通知の直前、85年3月の卒業式では小・中学校の掲揚率は6%台、高校はゼロで、君が代斉唱は小・中・高校とも1校もなかった。

 復帰によって地方公務員法が適用され、「オール教職員」だった復帰前と変わり、管理職と一般の教職員が同一の組合でなくなっていた。徐々に管理職と現場教員の対立が起こり、教組の組織率も下がっていく中での出来事だった。これを機に翌86年3月の小・中・高校の卒業式から「日の丸」掲揚を強行する校長と、反対する教職員、生徒らが対立し、混乱が始まった。99年、政府は日の丸・君が代の法制化を検討する方針を決めた。

 組織部長、法制部長、副委員長を経て、91年から沖教組の執行委員長になっていた石川は「政治的圧力が学校現場にかけられてきている」と強い懸念を示した。

 

■沖縄戦が原点

 

屋良朝苗氏の功績をたたえて建立された胸像をうれしそうに見詰める石川元平さん=2008年11月、那覇市の教育会館

 97年4月、石川の「生き方を変えた」屋良が心不全で世を去った。沖縄戦を経験した沖縄について「二度と国家権力の手段として沖縄が犠牲にされるような生き方はしちゃいかん」と遺訓を述べた。石川が執行委員長になったことを喜び、自らがやり残したことを悔やみながらも常に若者が歩む教育の道を気に掛けていた。

 石川の根源には、沖縄戦への思いがある。戦争体験こそ、戦後沖縄が米支配下の重圧にあらがいつつ、培ってきた「沖縄のこころ」の原点であるからだ。83年に「子どもたちに沖縄戦の教訓を伝える県民運動」として発足した、後の1フィート運動の会では副代表を務めた。県内外から寄せられた寄付金で、これまでに約11万フィート(約33・5キロメートル、約50時間分)の沖縄戦記録フィルムを米国から収集。記録映像として、沖縄戦の実相を伝えてきた。会は2013年に「歴史的使命は終えた」として活動を終えた。

 来年で復帰から50年。石川にとっての復帰とは―。「思い描いていた沖縄ではないことは確かだ」。敗戦の教訓と反省から平和憲法を持つ国に生まれ変わったはずの日本だが、対米従属の政府の姿勢は変わらず、県民に約束した「本土並みの」基地負担はかなえられていない。

 しかし「乗り越えなければならない。この国のゆがんだ歩みの修正が沖縄にはできる」と信じている。「石川君、頑張っているな。いつも苦労掛けているな」。生前、家を訪ねる度に、穏やかな表情を浮かべながら、そう話した屋良の声が、今も聞こえてくる。

 (文中敬称略)
 (新垣若菜)

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