日本復帰後も米軍基地が残されることを前提とした沖縄返還協定が衆院特別委員会で強行採決されてから17日で50年となる。琉球政府の屋良朝苗主席(当時)が基地撤去など復帰に関する沖縄側の要望をまとめた「建議書」を携え、上京した日でもある。復帰を半年後に控えた「沖縄の最後の声」は目前で封じられた。沖縄の日本復帰を語る上で欠かせない出来事から、半世紀が経過した。(稲福政俊)
沖縄返還協定を審議する第67回臨時国会(通称「沖縄国会」)が開かれていた1971年11月17日午後3時17分、屋良主席は羽田空港に降り立った。
その数分前、衆院沖縄返還協定特別委員会は与党自民党が強行的に審議を打ち切り、同協定承認案を採決して幕を閉じていた。
屋良主席は空港到着時、強行採決に気付いていなかった。事態を知ったのはホテルに着き、記者からマイクを向けられた時だ。ぼうぜんとして言葉が出なかった。日記には「党利党略の為には沖縄県民の気持ちと云うのは全く弊履(へいり)(破れた草履)の様にふみにじられるものだ」と怒りをつづった。翌日、屋良主席は佐藤栄作首相(当時)や衆参両院議長らに建議書を手渡した。
建議書には、国家権力や基地の犠牲から脱し、豊かで希望の持てる「新生沖縄」や「基地のない平和の島」という、県民が自ら描く将来像が示されていた。
50年の時を経て、建議書作成に関わった元琉球政府職員の平良亀之助さん(85)は「今でもそのまま通用する内容だ」と語る。復帰後も続く基地被害に対する嘆きにも、精魂込めて建議書を作成した自負にも聞こえる。そして、建議書が首相らに届けられたこと、要求に期限を設けていないこと、歴代の県知事が取り下げていないことを指摘し、こう強調する。「今も建議書は生きている」