「琉球処分」の手伝いか?疑問に思った若手が動いた 「建議書」作成の舞台裏<沖縄返還協定採決から50年>


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建議書を見返しながら、当時の心境を語る元琉球政府職員の平良亀之助さん=5日、那覇市内の自宅

 通称・沖縄国会の衆院沖縄返還協定特別委員会で同協定が強行採決され、沖縄の声を詰めた「建議書」が国会に届けられなかった出来事から17日で50年を迎えた。1971年当時、建議書の骨格をつくったのは、日本政府ペースの復帰準備に焦りを感じていた琉球政府の若手職員らだった。元琉球政府職員の平良亀之助さん(85)は「あの時、何もしなければ復帰を丸のみしたことになり、『基地のない平和の島』を主張する論拠が失われていた」と、建議書作成の意義を強調する。

 平良さんは琉球政府の復帰対策室の発足準備から関わり、70年10月から政府内に正式発足した対策室で文教・労働担当の事務を担った。関係団体から要望を聞き、日本政府に報告するのが仕事だった。ところが、報告後は音沙汰なし。一方、日本政府は第1次から第3次までの沖縄復帰対策要綱を相次いで閣議決定した。

 沖縄側の思いがくまれていないのではないか。疑念を持っていた。当時の心境を平良さんはメモに残している。「復帰の時期が押し迫ってくると、日本政府のためにのみ忙しく、果ては“琉球処分”の手伝いをさせられていながら、形の上では沖縄の声を取り入れる中で復帰業務が推進されているという見せかけの片棒を担がされている」

佐藤栄作首相(右)に建議書を手渡す屋良朝苗・琉球政府主席。後ろは山中貞則総務長官(肩書きはいずれも当時) =1971年11月18日、首相官邸

 沖縄国会の開会は71年10月に迫っていた。同年9月30日、同じように焦りを感じていた職員と結成した「行政研究会」と官公労OBが集まった。その頃、日本政府の復帰関連法案は内密に琉球政府首脳に届けられていた。平良さんは「法案は既に復帰対策室に届いている」とその場で暴露。すぐに副主席を通じて法案を入手し、研究者も巻き込んだ復帰措置総点検プロジェクトチームが動き出した。

 日本政府と琉球政府上層部の間で進められていた復帰準備作業を、若手職員らのプロジェクトチームが総点検するという異例の事態。当時は「クーデター」とも呼ばれた。プロジェクトチームは徹夜で建議書案をまとめ、屋良朝苗主席に提出。屋良主席が修正を加えて出来上がったのが建議書だった。国会審議には間に合わなかったが、屋良主席が佐藤栄作首相や衆参議長に手渡したのは確認した。

 建議書から26年後の97年11月、復帰25周年式典で大田昌秀知事(当時)は「政府が建議書を真剣に受け止めて、県民の願いを施策に反映してくれていたら、わが県はもっと違った姿になっていたと思う」との式辞を述べた。平良さんも現場で聞いていた。

 装備が強化されていく米軍基地、民間港も使って訓練を計画する自衛隊。建議書が描いた「基地のない平和の島」は今も訪れず、実現を求める戦いは続く。平良さんは「建議書は今の闘争につながるくさびとなっている」と強調する。 (稲福政俊)

【用語】

建議書 復帰に関する沖縄の要望を政府に建議(意見を上申)するため、琉球政府が1971年11月16日に取りまとめた。正式名称は「復帰措置に関する建議書」。「はじめに」「基本的要求」「具体的要求」の三部構成で全132ページ。「はじめに」の項目は屋良朝苗主席が執筆した。米軍基地の存在について、県民の人権を侵害し、生活を破壊する「悪の根源」と指摘し、基地撤去と自衛隊の沖縄配備反対を明記した。衆院の沖縄返還協定特別委員会が強行採決で終了したため、同委員会には提出できず、屋良主席が佐藤栄作首相らに手渡した。