「慰安婦」国の責任問う ペ・ポンギさんの人生語る


社会
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「ぺ・ポンギさん30年忌 追悼シンポジウム」でパネリストの話に聞き入る来場者=20日、南風原町の南風原文化センター

 1944年に朝鮮半島から日本軍「慰安婦」として沖縄に連れて来られ、戦後も沖縄で生き続けた裴奉奇(ペポンギ)さん(享年77)の「30年忌 追悼シンポジウム」(沖縄恨之碑の会主催)が20日、南風原町の南風原文化センターで開かれた。裴さんと17年間にわたり交流のあった金賢玉(キムヒョノク)さん、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代さん、98年に本紙で裴さんに関する連載を書いた琉球新報の松永勝利広告事業局事業統括局長の3氏が登壇した。

 30年忌 南風原でシンポ

 賢玉さんは夫で朝鮮総連県本部の金洙燮(キムスソップ)さん(享年78)と75年から裴さんを支えた。日本軍「慰安婦」時代の心の傷や、故郷に帰れず涙を流す裴さんを見てきた。それでも金夫妻らから朝鮮半島や沖縄の歴史を聞き、学びを深めた裴さんについて「晩年は生きる意欲を持って過ごしていたことがうれしかった」と語った。

ペ・ポンギさん(金洙燮さん撮影、金賢玉さん提供)

 高里さんは沖縄にはかつて、延べ145カ所の日本軍「慰安所」があったと説明した。裴さんや「慰安婦」とされた女性たちのことを追悼することと同時に国の責任を問い続ける必要があると訴えた。

 松永さんは連載の1話目で「孤独の死」という見出しが付いたことに洙燮さんから激怒されたと振り返った。連載で延べ41人を取材したことを踏まえ、「裴さんは決して孤独で亡くなった訳ではない。人と交流を深め、人間としての尊厳を失わずに人生を終えた」と話した。

 生活保護を受けていた裴さんをかつて、ケースワーカーとして3年間担当した那覇市副市長の久場健護さんも来場した。3氏の講話後、感想を求められた久場さんは「裴さんを通して、人権は尊重されなければならないと学んだ」と述べた。

 シンポジウムは沖縄恨之碑の会共同代表の安里英子さんが進行を務め、130人余が来場した。