prime

「怒涛」の精神で 舞台、報道の世界で活躍 富田めぐみ氏、池間昌人氏 糸満高校(9)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
糸満高校の正門に立つ「怒涛」の石碑

 琉球芸能を中心に舞台制作を手掛け、ラジオパーソナリティーとしても活動する富田めぐみ(48)は糸満高校46期である。「両親が出会ったのも糸満高校。私は糸満高校ベビーです」

 1973年、東風平村(現八重瀬町)富盛で生まれた。東風平中学校では放送部に所属した。「取り柄のない生徒で悶々としていた。ラジオの深夜放送で同世代の人の悩みを聞き、パーソナリティーに励まされた」と振り返る。

 89年、糸満高校に入学。放送部で活動し、高校放送コンテスト全国大会に出場した。自分の声に自信がなかったという富田を支えたのが顧問教師の新崎尚子だった。

富田めぐみ氏

 「私は声が低く、技術もない。コンプレックスの塊のような私を新崎先生は『めぐみさんの声を生かすように。そのままの声でいいんだよ』と背中を押してくれた」

 富田は高校時代からラジオ沖縄の番組に出演するパーソナリティーとして活躍した。軽音学部にも所属し、バンドを組んだ。楽器を買うためアルバイトに励む「忙しい高校生」だった。

 卒業後、テレビや映画、舞台へと活躍の幅を広げていた。NHK大河ドラマ「琉球の風」にも出演した。その富田は21歳の時、転機を迎える。カナダへの留学である。

 「高校2年の時から5年間、駆け抜ける日々を過ごしてきた。海外で一休みしたいと思い、1年半くらい旅をしていた」

 後任でラジオ番組を担当したのが放送部の後輩で、現在ラジオパーソナリティーとして活躍する玉城美香である。

 20代後半から舞台演出や制作に取り組む。裏方として舞台を支えてきた。「舞台の後ろにいて聞く拍手に充実感を感じるようになった」と富田は語る。2013年には「琉球芸能を通じて世界をつなげる」という信念で「琉球芸能大使館」を設立した。

 走り続ける富田は、糸満高校の正門に立つ「怒涛(どとう)」の石碑に励まされてきたという。校章に描かれた大波に由来し、「怒涛の如く邁進する」という糸満高校の精神を象徴している。

 「私は怒涛の2文字から圧を浴びてきた。へこたれない」

池間昌人氏

 NHK沖縄放送局のアナウンサー、池間昌人(33)は63期。報道の仕事に携わる夢を抱く少年だった。「色んな人に会い、人の知らないことを調べ、伝える。そういう刺激的な仕事をしたかった」

 1988年生まれ。米須小学校、三和中学校に通った。父は琉球新報の記者だった。「父の仕事場に行ったことがある。雑然としていて慌ただしい雰囲気が格好いいと思った」

 海外への関心も強かった。スイス人の母を慕うスコットランドやオーストリアの友人たちが自宅に訪ねてきたことが刺激となった。「海外の文化に触れ、肌で感じたい」という思いを募らせた。

 2004年、糸満高校に入学。「都会の高校に行くという感じだった。東風平や豊見城などから、ふだん接したことのない人も高校に集まった。少しだけ社会が広がった」と語る。

 入学時から海外留学を希望していた。市内の書店でアルバイトをして留学資金をためた。高校3年の時、夢が実現する。留学先は米ミズーリ州セントルイス。「出発の日、友達が見送りに来てくれ、『頑張れよ』と声を掛けてもらった」

 07年に帰国し、東京の成蹊大学に進んだ。卒業後、NHKに入り、新潟、青森を経て、19年に沖縄放送局に赴任した。沖縄に腰を据えるのは10年ぶりだった。

 担当する夕方のニュース番組「おきなわHOT eye」の最後に「あちゃーやーさい」としまくとぅばであいさつしている。

 「ニュースは標準語で伝えなければならないが、方言をないがしろにはできない。隙間があれば方言を入れていきたい」

 街の姿が変わり、都会化が加速化する沖縄に寂しさを感じながら、生まれ育った地との新たな出会いを重ねている。

 「嫌なことがあっても、日の光に当たり、風に吹かれればすっきりする。ずっと沖縄にいたいと思う」

 高校の頃、外に目を向けていた池間は沖縄の今を見つめている。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)
 

 【糸満高校】
 1946年1月 開校(16日)、首里分校設立(27日、3月に首里高校独立)
    3月 真和志分校設立(9月に首里高校と合併)
    5月 久米島分校設立(48年6月に久米島高校独立)
  56年4月 定時制課程設置(74年に廃課程)
  88年6月 県高校総合体育大会で男女総合優勝
 2011年8月 野球部が夏の甲子園に初出場
  15年3月 野球部が春の甲子園に初出場

クリックで糸満高校の校歌が聞けます。