住民排除の裏付けを米軍看板の写真で確認「民間人の立ち入りを禁止する」 旧名護町、1945年


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄戦当時の旧名護町とみられる写真。民間人の立ち入りを禁止する看板のそばを女性や子どもたちが歩いている(米海軍建設工兵大隊博物館所蔵)

 沖縄戦のさなかの1945年、米軍が旧名護町内から住民を排除していたという証言を裏付ける可能性がある写真が4日までに見つかった。写真に写る看板には、英語と日本語で「民間人の立ち入りを禁止する」と記されている。専門家によると、米軍は沖縄戦に続く日本本土侵攻作戦に備え、旧名護町や周辺一帯の土地を使う計画だった。このため、米軍は住民を民間人収容地区に収容し、それ以外を立ち入り禁止にしていたとみられる。

 名護市教育委員会市史編さん係任用職員の川満彰さんは「『名護町内に入れなかった』との住民証言は数多くあるが、実際に証言を裏付ける写真の確認は初めてではないか」と話す。

 一連の写真は、米海軍建設工兵大隊博物館のホームページで昨年1月に公開された。博物館によると、大隊が沖縄に駐留した45年4~9月の間に撮影された。この大隊記録によると、大隊はこの間、読谷飛行場の修復、ボーロー飛行場の新規建設、泡瀬飛行場の新規建設などを行った。

 写真説明に「nago」とある一枚には加えて「2カ国語の看板は、住民に名護と近くの軍施設から離れるように警告する」と記されている。写る看板には「民間は名護市内(原文ママ)および付近に入るべからず」「軍事施設に近づくな」などと、日本語と英語の表記がある。看板の背後には原野が広がり、道を女性や子どもたちがはだしで歩いている。

 名護・やんばるの沖縄戦体験者の証言を記録してきた川満さんは、看板の場所は「旧名護町と考えられる」と話す。川満さんによると45年4月、米軍は名護に進軍後、旧名護町中心部にあった県立第三中学校(現在の名護市大南)を陣地にした。山の中に避難していた住民や避難民は旧羽地村に米軍が設置した田井等収容地区に収容された。川満さんによると、田井等収容地区と旧名護町の間には警察の詰め所があり、住民が旧名護町に行くことはできなかったという。旧名護町内は、45年11月ごろ開放されたとみられる。

 沖縄戦と戦時下の米軍基地建設に詳しい関東学院大の林博史教授によると、45年7月時点の米軍の計画では、日本本土侵攻作戦に備え、旧名護町や本部半島には、訓練区域や火薬庫、海軍の小型艇修理基地などを建設するとしていた。
 写真に写る場所は建設地には該当していないとみられるが、林教授は「基地にする場所もそうでない場所も含め、名護一帯は全て米軍が使うので、住民を立ち入り禁止にしていたということだろう」と指摘する。

 一連の沖縄の写真は「U.S.Navy Seabee Museum」で検索し、「87th Naval Construction Battalion(1943-1945)」の254ページから333ページに掲載されている。

(中村万里子)