[日曜の風・吉永みち子氏]権利と義務 先か後かではなく


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吉永みち子 作家

 このコラムも私の担当は今回で最後。最後となると何を書こうか悩むが、私が一番こだわっている言葉について書こうと思う。

 実はずっと引っ掛かっているのが、最近よく聞くようになった「権利には義務が伴う」という言葉。昔から日本ではおなじみの「働かざる者食うべからず」という言葉も、いろいろな事情で働くという義務を果たせない者は、食べる権利すらないということで、よく考えると冷たい言葉だ。

 日本人の勤勉さは、義務を先に考えることにあまり抵抗がないのか、権利と義務の関係が曖昧なところがある。だから「権利には義務が伴う」と言われると、そうだよねと受け入れてしまう。その傾向が顕著になるのは疫病や戦争というお国の一大事なのだろう。

 権利が先か義務が先かということを、鶏が先か卵が先か的な迷路に迷い込ませてはイカンだろうと一念発起、そこら辺に詳しそうな人に聞きまくってみたこの1年。なるほどと思ったのは左脳系の友人のこのひと言だった。

 「権利には義務が伴うを、権利を行使する条件が義務のように使われてるとしたら、それは違う。同じ人間に権利と義務が先か後かで存在するのではなく、一方の権利の向こう側に、もう一方の義務が生じるということだと思うよ」

 なるほど。その方向で整理すると、例えば教育は、子どもは教育を受ける権利があって、教育環境を整えるのは国の義務。近代憲法の基本とされる人権のほぼ全てを網羅している現行日本国憲法では、国民はさまざまな権利を有していて、それを保障するのは国の義務という関係になる。右脳的な理解では、権利は義務のご褒美ではないということかな。憲法は同時に、権利は不断の努力で守ることも国民に求めている。きっと奪われやすいからだろう。

 そこで気になる自民党の改憲案。「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し…」となってる。おお、ここに“伴う”が登場だ。たった2文字だけれど、大きな変貌を生む2文字になりそうと心配になっている私なのである。

 移動の自由が制限されたコロナ禍の2年弱。このコラムのおかげで毎月1回沖縄にお邪魔している気分でいられました。お読み下さった皆様、ありがとうございました。

(作家)