<未来に伝える沖縄戦>8人家族、ひとり助かる 爆弾破片が壕貫き妹亡くす 徳田ユキさん


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 南城市玉城前川に生まれた徳田ユキさん(85)=旧姓野原=は、小学3年生の時に沖縄戦を経験しました。父が前川集落近くに掘った壕に隠れましたが、米軍が沖縄島南部に侵攻すると、家族と一緒に激戦地の糸満市摩文仁方面へ逃げました。「鉄の暴風」の中をさまよい、家族8人のうち徳田さんだけが助かりました。徳田さんの孫で玉城中2年の當眞葵士さん(13)と同中2年で前川出身の玉城陽左志さん(14)が話を聞きました。

沖縄戦で家族を失った徳田ユキさん=南城市玉城前川

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 《徳田さんは1936年4月12日、6人きょうだいの次女として生まれました。1943年に玉城国民学校に入学します》

 わが家は戦前、農業と酪農を営んで生活していました。米や野菜を栽培しながら牛、ヤギ、豚などを飼っていました。父は搾った牛乳を前川のお年寄りたちに分けるなどしており、近所の人たちと助け合って生活していました。

 1944年、日本軍の武部隊(第9師団)が前川など玉城村(現南城市)の各地に駐屯します。当時私は国民学校の2年生でした。学校の校舎が軍に使われることになり、私たちは大きな民家に移動しました。しかし、この民家も軍が使うことになり、机と椅子を持ってさらに別の場所へと移動しました。

 44年10月10日の10・10空襲は前川の高台から見ました。とても恐怖を感じました。

 《10・10空襲後、前川の住民は雄樋川沿いの前川樋川(まえかわひーじゃー)周辺に約60基の壕を掘りました(前川民間防空壕群)。米軍が沖縄島に上陸する直前の45年3月、徳田さん家族も壕に避難します》

 前川の高台から港川(八重瀬町)を望むと、米軍の艦船で埋め尽くされていて、青い海が見えないほどでした。私はそれまで、小さなサバニの船しか見たことがなかったので、初めて艦船を見た時はとてもびっくりしました。私たち家族は、雄樋川沿いの壕に避難しました。米軍が本島に上陸する前、米軍機が前川の上空でガソリンのようなものを集落にまいて火を付けました。集落は火の海になりました。

 壕には防衛隊に駆り出されていた長男兄さん以外の家族と、姉の子どもと一緒に入りました。壕内は広く掘られていて、隣の壕とつながっていました。豆や黒糖などを準備していたので、食べ物には困りませんでした。壕の外では米軍機からたくさんのビラがまかれていました。まだ小学校低学年なので、何が書かれているのかよく分かりませんでしたが、「住民は知念に避難しなさい」と書かれていたそうです。でも近くにいた日本兵は「米軍はうそをついている。ビラを信用するな」と住民に伝えていました。長男兄さんが豊見城で亡くなったと聞いたのはこの壕にいた時でした。

 《5月下旬ごろ、前川には首里や南風原から多くの避難民がやって来ました。日本軍は徳田さん家族に、後に激戦地となる糸満市摩文仁方面への避難を勧めます》

 ある日、日本兵が壕に来て「米軍は南風原辺りまで来ている。島尻(糸満市)の方へ逃げなさい」と伝えます。父は「子どもを連れて島尻に行くことなどできない。シマ(集落)に帰った方がいい」と断りますが、日本兵は父を説得しようとしました。父は怒って自宅のあった場所に戻ろうとしましたが、姉が「みんな島尻の方へ向かっている」と父を引っ張り、私たちは軍の言うことを信じて南へと向かいました。

※続きは12月8日付紙面をご覧ください。