チラシ裏の「遺言状」 家族の戦争初めて明かし「私の終戦記念日は今日」 宮里キクエさん上<つなぐ戦の記憶>


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母・宮里キクエさんが描いた絵を見つめる砂川八重子さん=11月、うるま市

 自らの命を顧みず、幼い娘のために生き抜いた母の沖縄戦の記憶に触れたのは「遺言状」を見つけてからだった。現在の那覇市首里山川町で生まれ育った砂川八重子さん(77)=うるま市=は父や兄、母方の祖母らを沖縄戦で失った。その最期を知ったのは母の「遺言状」。そこには母の非戦の思いもつづられていた。母は遺言を書き終え「私の終戦記念日は今日」と記した。その日々が続くよう八重子さんは母の言葉を胸に刻む。

 遺言を書いたのは八重子さんの母・宮里キクエさん。1989年2月、72歳で亡くなった。八重子さんが遺品を整理していると、チラシの裏などに書き込まれたキクエさんの戦争体験のメモを見つけた。メモは86~87年に書かれたとみられる。八重子さんは、子どもや孫たちに母の記憶を伝えようと、ワープロで打ち込んでもらい冊子にまとめた。「母は戦争の話を全くしなかった。思い出すのが嫌なのかと思った」。八重子さんは少し驚いたという。

 キクエさんは夫の仁里(じんり)さん、3歳だった次男の仁志さん、母の3人の命を戦争に奪われた。戦時中に台湾へ疎開していた長男と八重子さんを育てるため、戦後、女手一つで懸命に働いた。

 キクエさんの記録には、長男は台湾に疎開させ、夫・仁里さんと仁志さん、八重子さんや親族と首里の自宅から南部に避難したことや、収容所に入るまでの細かい足どりが記されていた。

 仁里さんは教員で青年学校に勤務した。米軍が上陸して首里城が焼け落ちると職場を離れ、首里から避難した。家族らと共に一度は北部を目指したが、人の流れに阻まれ南部に向かった。

 45年6月中旬、具志頭村(現・八重瀬町)玻名城の壕を出ると、一家は艦砲や迫撃砲などが飛び交う中をさまよった。道行く先には、ゴムのように膨れあがった死体や、うじのわく母親の乳房に吸い付く子、焼けた木にぶら下がる内臓、もぎ取られた手足が散乱しており「さながら地獄絵」だったと記録されている。

 その後、キクエさんらは親族らと真壁村(現・糸満市)新垣のかやぶきの空き家に逃げ込んだ。ただ、仁里さんは腕に砲撃を受け、多量に出血していた。「子どもたちをよろしく」。苦しみながらも仁里さんは言葉を振り絞り、45年6月17日に息絶えた。その3日後には頭に砲撃を受けていた仁志さん、キクエさんの母も亡くなった。

 目の前で家族を失ったキクエさんは我を失い「一緒に死にたい」と八重子さんを抱き、弾の飛び交う方向に近寄っていった。
 (仲村良太)

戦争体験を語らなかった母が「遺言状」に書いた鮮やかな絵と非戦の思い 宮里キクエさん下<つなぐ戦の記憶>

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