[日曜の風・浜矩子氏]政策に問われる遍在 全体と全員


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浜矩子 同志社大・大学院教授

 全体最適と全員最適は違う。筆者は常々そう考えてきた。今ほど、それを実感できる時はない。つくづく、そう思う。

 供給は十分です。在庫はしっかり確保されています。ワクチンは着々と増産されています。お困りの皆さんのための現金支給に向けて準備は順調に進んでいます。病床は確保しました。

 こうしたことをいくら言われても、どこに行けば、この「万全さ」の恩恵に浴せるのかが分からない。全体として、いくら問題が無くても、全員が、その「問題無き全体」によって救われるのでなければ、意味がない。

 遍在と偏在は、音は同じだが、意味は正反対だ。遍在は、「広く行き渡って存在すること」の意だ。偏在は、「かたよって、ある所にばかり集中して存在する」ことを意味する。どんなに供給が潤沢でも、それが遍在することなく、偏在してしまっていたのでは、何の意味もない。全体最適を確保したからといって、胸を張ることはできない。

 政策というものは、あまねく行き渡る状態、すなわち全員最適を実現できてこそ、仕事が完結する。遍在をどう確保するか。偏在をどう避けるか。この点に、日本の経済政策は今、どれほど気を配っているか。バラマキの金額規模にばかりこだわる政治家たちは、全体と全員の違い、遍在と偏在の違いにどこまで神経を研ぎ澄ましているだろうか。

 クリスマスが近い今、イエス・キリストの奇跡の一つに思いが及ぶ。彼をしたって押し寄せる人々のために、イエスはパンと魚を与えた。一人の少年が持っていた五つの大麦パンと2匹の魚が、大群衆にあまねく行き渡った。聖書には、イエスが「パンと魚を増やした」とは書かれていない。全員に「欲しいだけ分け与えられた」としか書かれていない。だが、「全員が満腹した」のである。しかも、「少しでも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい」というイエスの指示に弟子たちが従ったところ、12の籠がいっぱいになった。

 五つのパンと2匹の魚は、全体最適にはほど遠かった。だが、全員最適は実現された。このクリスマス、バラマキ族は聖書を読んだ方がいい。

(浜矩子、同志社大・大学院教授)