北山、53年県勢初の全国へ 沿道に「沖縄」の小旗 <巻き起こせ旋風 県勢駅伝の歩み>5


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 視界を横切っていく沿道の景色は今も脳裏に焼き付いている。「沖縄」と書かれた日の丸の小旗が揺れる。胸に校章の赤鷲(わし)を縫ったタンクトップ姿で冬の大阪路を駆ける自分に向け、熱い声援を送る大阪県人会の人たち。「沖縄の人がいっぱいいて、みんな道に出て応援してくれた。沖縄を代表して走ることは誇らしかったね」。北山高陸上部の一員として、県勢初の全国高校駅伝競走大会出場を果たし、2区の3キロを走った大村光洋(85)=本部町具志堅=の17歳の頃の記憶だ。

 それは沖縄の長距離界にとって、歴史的な一歩だった。1953年12月27日、大阪で開かれた第4回大会(7区42・195キロ)のことだ。その約1カ月前、17校が出場した第1回全島高校駅伝競走大会予選大会(7区)を2時間29分37秒で制した北山が初めて全国の舞台に派遣された。当時の沖縄は米統治下で、北山は順位の付かないオープン参加だったが、全国駅伝の歴史に確かな足跡を残した。

本番を目前に控え、大会地・大阪で練習に励む大村光洋(右から2人目)ら北山高男子の駅伝メンバー=1953年12月(大村さん提供)

 メンバーは1区から順に喜屋武義明、大村、池原源次、照屋全隆、湧川真佐夫、山内虎雄、玉城貞次。大村が「今帰仁、本部はスポーツが好きな町村で、北山は陸上が盛んだった」と語る通り、駅伝県予選の2週間前にあった陸上競技の第1回全島高校大会で男女とも北山が優勝し、沖縄の高校スポーツを席巻していた。同大会で三段跳びと走り幅跳びの2種目を制した大村や、1万メートルで優勝した喜屋武ら有力選手を招集し、全国切符を手にした。

 一行は3泊4日の船旅を経て大会8日前の12月19日に神戸に入り、現地の県人会から熱烈な歓迎を受けた。大会を翌日に控えた26日の開会式では、湧川主将が「参加の決定が遅く、練習不十分の点もあるが、皆様と共に走れることはうれしいことです。頑張ります」(同28日付、琉球新報朝刊)と殊勝なあいさつをし、会場から拍手を浴びた。

 本番の結果は2時間38分48秒で、最下位の勝山(福井)に遅れること3分13秒でゴール。大村は「内地の強さにとにかくびっくりした」と振り返るが、7人は慣れない寒さに屈することなく、42・195キロの道のりで郷土と関西の県人の期待のこもったたすきをつなぎきった。36年ベルリン五輪の1万メートルと5千メートルの日本代表で、当時毎日新聞の運動記者だった村社講平は、総評記事の締めくくりで「初参加の沖縄は3分程度の開きで一応内地チームに仲間入りできる健闘を示したことは、沿道の人々に大きな感銘を与えた」と賛辞を送った。

68年前のアルバムをめくり、全国高校駅伝に出場した当時を懐かしむ大村光洋さん=2日、本部町具志堅

 あれから68年。北山は今も県内の高校長距離界を先頭で引っ張り、26日の第72回全国駅伝では県勢男子過去最高のタイムと順位が期待される。高齢となった大村は母校に足を運ぶ機会は減ったが、県高校駅伝は自宅前の道路がコースとなっており、毎年後輩の勇姿を目にするのが楽しみの一つという。「今の子たちも頑張ってるよね」と穏やかな表情で語り、“若鷲”たちの雄々しく、高らかな飛翔(ひしょう)を心から願う。

 (長嶺真輝)