雪の箱根、沖縄の駅伝史を切り開いた…濱里、健脚の源は北山高校時代に<巻き起こせ旋風 県勢駅伝の歩み>6


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箱根駅伝6区、大雪の中をさっそうと駆けていく濱里正巳=1985年1月3日、神奈川県の箱根路(濱里さん提供)

 晴天に恵まれた初日の往路(1~5区)を見届けた箱根の山は、一夜にして銀世界と化していた。未明にちらつき始めた雪は復路(6~10区)が始まる午前8時になってもしんしんと降り続き、路面に積もっている。腹に付けたゼッケンの内側に防寒用の綿を詰め、スタート地点の神奈川県・芦ノ湖駐車場でたすきを掛けた日体大3年の濱里正巳(今帰仁村出身、北山高出、当時21歳)は、生まれて初めて目にする光景にぼう然としていた。「これでどうやって走るんだ…」

 第61回東京箱根間往復大学駅伝競走の復路が行われた1985年1月3日。山下りのスペシャリストがひしめく6区(当時20.5キロ)に名を連ねた濱里が、大学スポーツの花形「箱根駅伝」に出場した。身も凍る寒さと雪景色にあっけにとられたが、大学3年目でようやくたどり着いた憧れの舞台。「区間賞だけを狙っていた」と内なる闘志はいささかも衰えていなかった。

 往路優勝の早稲田大、2位順天堂大に続き、早稲田と6分13秒差の3番手で駆けだした。5キロ弱を走り、山下りへ。「転んだらどうしよう」という不安を押し殺しながら、凍結した路面に注意を払い、曲がりくねった山あいの道を高速で下っていく。足を滑らせて転倒しかけ、地面に手を付くアクシデントもあったが、4位でたすきをつないだ。

 1時間2分17秒の区間4位で区間賞に1分及ばず。日体大の復路優勝には貢献したが、6区でトップ選手の証しとされる1時間切りも視野に入れていたため「悔しかった」。苦笑いを浮かべつつ「さすがに雪の練習はしていなかったからね」とも。それでも「貴重な経験だった」と懐かしむ。

自身の学生時代を振り返る濱里正巳さん=10月14日、宜野湾市立グラウンド

 箱根で過去10回の総合優勝を誇る強豪大でレギュラーを勝ち取るほどの健脚の源は、北山高時代に培われた。短距離出身の仲地光雄監督の下、国頭地域の各地でキャンプを張りながら走り込むなど斬新な練習をした。「短距離練習も多かったけど、長距離でコンマ何秒を追求するには短距離の技術は大事。先生の熱意が伝わってきた」という。3年時には第32回全国高校駅伝で3区(8.1075キロ)を走り、チームは30位に。この順位は今でも県勢男子の過去最高順位だ。

 実業団を経て指導者となり、58歳の今は宜野湾高で監督を務める。同校3年の嶋田健人(18)は今年の県総体1500メートルで2位、加治工博恵(17)は800メートルで2位に入った。有力選手がそろう同世代の北山勢を見て「もっとやらないと」と刺激を受けてきたという。嶋田は「先生の指導を実践したらタイムが伸びた」と感謝を口にする。2人とも関東の大学に進学予定。加治工は「箱根に出て先生に恩返ししたい」と背中を追う。

 沖縄は他県の選手と競い合える環境の少なさや暑さという不利性はあるが、県外の記録会に積極的に参加するなどして地道に底上げを図ってきた。濱里は選手時代の経験を念頭に「沖縄の子たちは能力が高いし、できないことはない。十分にチャンスはある」と飛躍の世代の未来に期待を寄せる。
 (長嶺真輝)