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宜野座高校(2)東京からの編入生 恩師と演劇との出会いが救いに 玉城忠さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
宜野座高校の旧本館。宜野座国民学校の校舎を使っていた(創立40周年記念誌)

 宜野座高校の創立は1946年2月である。本島中南部の住民が集められた収容地区に置かれた大浦崎、祖慶、福山、中川、古知屋、久志のハイスクールが統合して宜野座高校となり、戦前の旧制中学で学んだ生徒が編入してきた。

 宜野座高校の建つ地には戦前、宜野座国民学校があった。宜野座高校の旧本館は宜野座国民学校の校舎を引き継いだもので、宜野座高校のシンボルと呼ばれていた。

 沖縄市の建設業・仲本工業の創業者で1930年に久志村(現名護市)三原に生まれた仲本興成は3期。44年に県立第三中学校に入学。沖縄戦では鉄血勤皇隊に志願した。戦後、宜野座高校の3年生に編入した。

 得意科目は数学だった。回顧録で「数字にはめっぽう強かったし、記憶力には自信があったので、英単語ぐらいは暗記していた。それが、後になって大いに役立つことになるとは、思いもよらなかった」と記す。

 卒業後、仲本は米国軍政府本部に就職する。愛称は「マイク」。後に建設業へと進む。

 琉球銀行の頭取を務めた崎間晃は4期。沖縄経済同友会の設立に関わり、初代代表幹事となった。県商工会議所連合会会長や県経済団体会議議長を歴任し、県経済の発展に寄与した。

玉城 忠氏

 崎間の同級生に、沖縄の地域スポーツの普及・振興に尽くした元県体育協会参与の玉城忠(92)がいる。崎間とは演劇サークルで共に活動した仲だった。

 1929年、東京で生まれた。父は伊江村の出身。東京都立城東工業学校3年で終戦を迎えた。東京大空襲で炎の中を逃げまとい、九死に一生を得た。焼け尽くされた街や多くの遺体を目の当たりにした。学業は断念せざるを得なかった。玉城は「空虚な生活を送っていた」と振り返る。

 47年9月に初めて沖縄の地を踏み、18歳で宜野座高校に編入した。生活は徐々に落ち着きを取り戻したが、学業で壁にぶつかった。「英語排斥教育の影響でアルファベットすらまともに書けなかった」

 答案用紙を白紙で出すなど自暴自棄になりかけていた玉城に教師が救いの手を差しのべる。「岸本幸政先生が下宿先に呼び、毎日特訓してくれた。生涯忘れられない恩師だ」

 男女共学は玉城にとって「動揺した事件」だった。宜野座高創立40周年記念誌に寄せたエッセーで書いている。「狭いコンセット教室に、青春真只中の、多感な男女が押しこまれ、机を並べたのだから大変だった。先生方も未経験だし、対策や指導には苦労されたと思う」

 東京育ちのため、うちなーぐちは解せなかった。2歳年下の同級生たちとの距離を縮めたのは演劇サークルの活動だった。崎間らと夢中で舞台劇に取り組んだことを懐かしむ。

 代用教員を経て琉球大学に進み、中学校の体育教師として採用された。授業では演劇も熱心に教えた。「学芸会は脚本も劇の演出もした」

 玉城は年代や育ってきた境遇が違う者同士が交流を通して学び合う「ふれあい学習」を追求してきた。後年、県かりゆし長寿大学校の運営委員長としてフォークダンスなどを指導。常に交流の中で学び合う姿勢を大切にした。

 少年期から抜群の身体能力を誇った玉城。伊江中学校に勤務していた頃、村陸上大会に出場して以来、破竹の勢いで数々の大会を制した。マスターズ陸上で100メートル、400メートル、5種競技で日本記録を樹立した。

 現在は療養生活を送っている。長男の貢(68)は「陸上大会やバレーボールの監督などでほとんど週末は家にいなかった」と振り返る。父に習ったゴルフでは全沖縄大会で優勝した。「親父はなんでもできた」。貢に背中をさすられると、少し誇らしげな表情を浮かべた。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 【宜野座高校】

 1946年2月 祖慶、福山、古知屋、中川、久志、大浦崎の各校を統合し、現在地に宜野座高等学校として創立
  48年4月 6・3・3制実施、新制高校として出発
  60年4月 琉球政府立宜野座高校に移行
  72年5月 日本復帰により県立高校に移行
 2001年3月 21世紀枠で春の甲子園に出場、ベスト4。8月、夏の甲子園に出場
  03年3月 春の甲子園出場