五輪マラソン代表候補に 比嘉、箱根駅伝Vも経験 <巻き起こせ旋風 県勢駅伝の歩み>7


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箱根駅伝の9区を力走する山梨学院大3年の比嘉正樹=1991年1月3日(比嘉さん提供)

 南国生まれの新鋭ランナーが、北の大地で堂々たる走りを見せた。実業団の資生堂4年目だった比嘉正樹=当時(25)、宜野湾市出身=が、エチオピア人の兄弟2人が引っ張る先頭集団に食らい付いていく。翌年に控えたアトランタ五輪のマラソン代表選考を兼ねた1995年8月27日の北海道マラソン。正午すぎのスタートで気温25度、微風という真夏のレース。2週間後、結果報告で琉球新報社を訪ねた比嘉はこう振り返った。「沖縄生まれだから暑さは気にならなかった」

 30キロ付近でトップ集団は3人に絞られた。40キロすぎでエチオピアの2人がスパートを掛け、ワンツーフィニッシュ。2時間15分18秒の3位でゴールした比嘉は、五輪代表選考の対象となる四大会の一つ目で「日本人トップ」という勲章を手にし代表候補に。選考レースに名乗りを上げた。「チャンスがあるかもしれない」。一度も意識したことがなかった世界最高峰の舞台へと、突如手の届く位置に立った。

 次に照準を合わせたのは選考対象の三つ目の大会となる96年2月の東京国際。目標は2時間10分切り。北海道の前にも行った米国での高地合宿で自らを追い込んだ。しかし本番は「気負い過ぎた」とリズムを崩し、足の痛みで33キロすぎで棄権。五輪選考から漏れ「出たい気持ちが強く、悔しかった」と悲嘆に暮れた。

 一時はスランプに陥ったが、98年には相性の良い北海道マラソンで生涯自己ベストの2時間14分8秒で2位に入り、再び日本人トップに。30歳で引退するまで国内の一線を走り続けた。その後もマラソン大会の運営などに携わり「今も当時の仲間と交流している」と競技愛は衰えない。

選手時代を振り返る比嘉正樹さん=6月、宜野湾市内

 宜野湾高出身。高校3年時に県代表として挑んだ87年の海邦国体少年1万メートルは27位で「後ろから2番目で全く通用しなかった」と、まだ全国では無名だった。当時日体大の濱里正巳(現宜野湾高監督)が箱根駅伝に出走し、「自分も箱根に出たい」と進学した山梨学院大時代に、日本のトップにまで飛躍する土台が築かれた。

 入学した88年、同大はまだ創部4年目だが、当時珍しい外国人選手を擁し、大学界の新興勢力として存在感を放っていた。沖縄には少ない起伏の激しいコースを走り込み、力のあるケニア人選手に付いていくことで走力を養い、3年で初めて箱根駅伝に出場。最も距離の長い9区(約23キロ)で区間5位となり、チームは過去最高の2位に。最終学年では日本学生対抗陸上選手権のハーフマラソンで6位入賞を果たし、再び箱根で9区を疾走した。同大初の総合優勝に貢献し「達成感がすごかった」と感慨深げに振り返る。

 新たな環境を求めた大学で適正を長距離に見いだし、マラソンに転向して全国トップ級の選手へと駆け上がった。その経歴を踏まえ、強くなる秘けつを「自分より力が上の人と走ること」と言い切る。高校から既に九州、全国で活躍する今の世代を見て「自分の時代からするとちょっと信じられない。全体でレベルアップしていくチャンス」と継続して好選手が生まれる土壌が築かれることを望んでいる。
 (長嶺真輝)