早稲田のシード奪回「才能なくても…」 元主将の宮城さん、沖縄勢に託す期待<巻き起こせ旋風 県勢駅伝の歩み>8


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自身初の箱根駅伝で3区を走る宮城普邦=2006年1月2日、箱根路(宮城さん提供)

 えんじのたすきの重みを感じながら、一歩一歩、着実にゴールへ前進していく。「悪い流れを切らないといけない」。2007年1月3日、箱根駅伝で2番目に多い13回の総合優勝を誇る名門早稲田大4年の主将として、アンカーを担った宮城普邦(ひろくに)=当時(22)、那覇市出身=は確固たる決意で復路の最終10区(23.1キロ)を駆けていた。

 入学直前の03年の第79回大会でシード権(10位以内)を失って以来、4大会連続で予選会から出場し、長いトンネルの中にいた早大。沖縄尚学高で都大路(全国高校駅伝)に出場できず、「その分箱根に出たかった」と進んだが、低迷期にあって「部内の競争に勝てばいいという感じで、井の中のかわずのような雰囲気があった」という。

 それでも自身の力はまだ通用するレベルにない。「『自分より速い人に負けない』と、練習から毎日が勝負のつもりだった」と走力を養い、3年時に自身初の箱根を3区(21.5キロ)で走った。しかし結果は1時間5分43秒の区間13位とふるわず、チームも総合13位でまたもシード権を逃した。「通用しなくて悔しい気持ちだった」とさらに闘争心に火がついた。

 主将として迎えた最終学年。夏場は北海道や長野の避暑地で月800キロほどを走り込み、9月には1万メートルで28分54秒16の県記録を出して「ようやく箱根で戦える力が付いた」と実感。このタイムは15年がたった今も破られていない。

 冒頭の場面。5位東洋大と52秒差でたすきを受け「一つでも順位を上げよう」と迫り、残り3キロ地点で10秒差まで詰めた。結果とらえることはできなかったが、6位を維持してゴール。区間3位の力走で早大5年ぶりのシード権獲得に大きく貢献した。身体能力が高い訳ではなく、自身を「才能がない」と評す。それでも「地道な練習で戦えるのが長距離走。努力が実を結んだ」と胸を張る。

選手時代を振り返る宮城普邦さん。今は警察官として働く=6月、那覇市の県警本部

 箱根の半月後にあった全国都道府県対抗男子駅伝では3区を区間24位で走り、前年の46位から35位に躍進する一翼を担った。県勢初の30位台で、今も過去最高順位だ。アトランタ五輪のマラソン代表候補だった比嘉正樹が監督を務め、メンバーは1区の濱崎達規(当時沖縄工業高)、4区の當山篤志(同コザ高)、7区の与那覇大二郎(同亜細亜大)も箱根ランナーという黄金世代だった。

 しかし、その後は再び40番台が定位置となっている沖縄。大学卒業後も東京電力に2年間所属し、競技を続けた宮城は「自分たちの時に少し沖縄の長距離が盛り上がったけど、それが続かなかった。低迷期の早大のように井の中のかわずになってはだめだ」と残念そうに振り返る。

 ただ、今の高校生の活躍には「また全国で戦うというマインドが根付いてきた」と心強く感じている。自身が保持する1万メートルの県記録も「早く抜いて」と後進の成長に期待を寄せる。新たな世代に「大学、実業団でもしっかりやって、息の長い選手になってほしい」と沖縄長距離を引っ張る存在になることを願う。
 (長嶺真輝)