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宜野座高校(3)アイロン台とハーモニカ、母が導いた学びの道 仲田美加子さん、伊藝美智子さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1960年代の登校風景(創立40周年記念誌より)

 貧しい暮らしの中でたくましく生きる母を人生の指針としてきた宜野座高校卒業生がいる。

 沖縄県文化協会会長の仲田美加子(79)は16期。「宜野座での貧しかった生活が私の原点です」と語る。

 1942年、中国・上海で生まれ、3歳の頃から宜野座で暮らした。教員の父は沖縄戦で防衛隊に動員され、命を落とした。貧しさで子どもたちに惨めな思いをさせまいと母は懸命に働いた。

 「日雇い労務をやり、婦人会長や生活改善普及員をした。いろんなアイデアを持っていた母だった」と仲田。母が考案したというアイロン台を今も大事に持っている。

 58年、宜野座高校に入学した。外で働く母に代わり、家事を受け持った。「テニスがしたかったし、図書館にも行きたかったけれど、真っすぐ家に帰った。余裕はなかったな」

仲田 美加子氏

 恋愛小説を読んで動揺するような子だった。「本を読んでいて『愛』とか『恋』という文字を見るだけで、どきどきした」と笑いながら話す。

 高校生活や進路への疑問や悩みを抱いていた。そんな仲田の声に耳を傾けたのは3年の時の担任、比嘉定照だった。

 「沖縄を出たくて悶々(もんもん)としていた。その思いを先生にぶつけると『周りに求めるのでなく、自分で切り開くことだ。自分で切り開けば、いろんな問題が解決する』と諭してくれた」

 卒業後、法政大学で学んだ。那覇市教育委員会で長く教育行政に携わり、文化財保護や生涯学習に力を入れた。2002年、市教育長に就任する。女性の市教育長は初めて。

 貧しかった時代を回想する時、たくましかった母を思い出す。「貧しさの中で強くなったし、人のつらさが分かるようになった。貧乏だったけれど心は満たされていた」と語る。

 精神的な豊かさを求める仲田の心は今も宜野座と共にある。

伊藝 美智子氏

 那覇市助役を務めた伊藝美智子(78)は17期。「音楽と書が私を導いてくれた」と語る。

 1943年、宜野座村惣慶で生まれた。村の幹部だった父は56年、伊藝が中学1年生の時、村長選に挑んだが、当選を果たせなかった。選挙翌日の食事が忘れられない。

 「みそ汁に具が入っていなかった。『きょうは、これだけ?』と聞いたら、母は『選挙に負けたら、こんなよ』と話していた」

 父はその後、宜野座高校の事務長となったが、母は倹約に徹した。「お小遣いをもらうことはなかった。子どもの教育費を考えていたのだろう」と語る。

 母は師範学校や女学校への進学は果たせなかったが教育熱心で、小学校の先生となるよう伊藝に勧めた。ハーモニカが好きで、当時の流行歌を吹いて聞かせた。母のハーモニカが伊藝を音楽教師の道へいざなう。

 59年、宜野座高校に入学する。村外の生徒とも接するようになった。米軍基地がある辺野古から通う生徒が目立っていた。

 「家が外国人相手の店をやっていたのでしょう。全ての面でおしゃれでお金持ち。弁当にはポークやウインナーが入っていた。私たちは粗食。キャベツのうぶさー(蒸し煮)ばかり食べていた」

 中学の頃から書道を学び、高校でも書道クラブに入った。「人の書いた字に関心があった」という。書はライフワークとなった。

 宜野座高校を卒業後、京浜女子大学(現鎌倉女子大学)へ進む。帰郷後、音楽教師となり各地の学校で教えた。2001年、開南小学校の校長から那覇市助役に就任した。県内初の女性助役だった。

 現在、台湾との交流団体・那覇日台親善協会の会長を務めながら、ふーちばー(ヨモギ)を生かした商品開発にも取り組む。人生の道しるべとなった母への思いを込め、「ハルちゃん」と母の愛称を商品名に記している。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 【宜野座高校】

 1946年2月 祖慶、福山、古知屋、中川、久志、大浦崎の各校を統合し、現在地に宜野座高等学校として創立
  48年4月 6・3・3制実施、新制高校として出発
  60年4月 琉球政府立宜野座高校に移行
  72年5月 日本復帰により県立高校に移行
 2001年3月 21世紀枠で春の甲子園に出場、ベスト4。8月、夏の甲子園に出場
  03年3月 春の甲子園出場