実業団で「誇りの6年」 濱崎、経験伝えレベル底上げ<巻き起こせ旋風 県勢駅伝の歩み>9


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全日本実業団対抗駅伝の3区で力走する小森コーポレーション時代の濱崎達規(右)=2015年1月1日、群馬県(濱崎さん提供)

 2012年元旦。晴天に恵まれた午前9時すぎ、第56回全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)のスタート地点となる群馬県庁前で、たすきを掛けた小森コーポレーション1年目の濱崎達規(33)の胸に、感慨が湧く。「やっと夢がかなった」。陸上を始めた与勝中時代に立てた将来の目標は「陸上でご飯を食べること」。沖縄工高で頭角を現し、亜細亜大では箱根駅伝を2度走るなど成長を続け、ついに国内最高峰の駅伝大会の舞台にたどり着いた。

 持ち味の大きなストライドを生かしたスピードを評し、付いた異名は「小森の特攻隊長」。1年目から1区(12.3キロ)を任され「尋常じゃないプレッシャーだった」というが、新人が気持ちで劣勢に立つ訳にはいかない。「絶対負けない」。号砲と同時に駆け出すと、強い闘争心で集団に食らい付いていった。9~10キロ地点。各ランナーが一斉にスパートをかける。濱崎はラスト3キロを8分30秒ほどで駆け抜けたが、「他の選手のスパート力や精神面の高さが際立っていた」と引き離された。それでも区間トップとの差は20秒のみ。上々の37人中18位でたすきをつないだ。

 2年目以降は主将を担い、最長距離でエース区間の4区も2度務めるなど6年連続で元日の群馬路を駆けた。ほぼ競技中心の生活で「仲間もできたし、楽しかった」というが、それ以上に「実業団は会社を背負うから結果を出さないと許されない。シビアな世界で、重圧がすごかった」と振り返る。厳しい競争環境の中で心身の限界に挑み続け、自らに国内一線級の走力と深い自信を植え付けた実業団時代を「誇りの6年間」と表現する。

ストップウオッチを手に、陸上クラブ「なんじぃAC」の子どもたちと練習を積む濱崎達規さん(左)=南城市陸上競技場

 沖縄に帰省後、18年に亜大の先輩である仲里彰悟(34)と小中学生を対象としたクラブチーム「なんじぃAC」を設立。各全国大会で40番台が定位置だった故郷に対し、一線にいた頃から「レベルを引き上げたい」という気持ちが強かったという。「自分が走るだけじゃ変えられない。学んだことを直接伝えるしかない」。思いを形にした。

 国内トップの世界から持ち帰った濱崎の経験は、すぐに県内で芽を出す。26日に全国高校駅伝を控え、歴代最強メンバーの呼び声高い北山男子の主力である3年の上原琉翔、嘉数純平、赤嶺達也は仲井真中の頃、なんじぃACでも練習を重ね、3年時の九州中学駅伝で8位入賞を果たした。

 北山高の大城昭子監督の下、才能をさらに大きく開花させた3人。濱崎は大城監督について「よく実業団時代の練習方法を聞いてくれたり、選手同士で一緒に練習させてくれたりする。いい意味で自分を利用してくれる」と信頼関係は深い。教え子たちが県勢過去最高の成績を目標に挑む全国高校駅伝が目前に迫る。「彼らは肝が座っていて頼もしい。レースを楽しんでほしい」と温かく見守る。

 沖縄長距離界に変革の兆しが見える一方で、これまで継続して好選手を生み出せなかった歴史を踏まえ「一瞬たりとも油断できない」と危機感は強い。「琉翔たちに負けない選手を育て、引き続き頑張らないといけない」。確かな経験と絶えることのない情熱を胸に、次世代に“たすき”をつなぐ。
 (長嶺真輝)
 (おわり)