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転機は大田元知事 「女性たちのパワー」に背中押され 沖縄初の女性国会議員 東門美津子さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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「県、沖縄市では『職員力』に助けられた」と語る東門美津子さん=11日、沖縄市(ジャン松元撮影)

▼(1)女性たちと切り開いた政治の道「刺激を受けた」から続く

 

 1942年11月、勝連町南風原で生まれた東門美津子(79)は、警察官だった父杉原吉彦の仕事の都合で小学3年生の頃に那覇市に移り住んだ。父は古典音楽や民謡、社交ダンスに囲碁、英会話をたしなみ、モダンで多趣味な人だった。母ハルは父を支え、牧志の自宅で小さな雑貨店を営んでいた。「親の苦労を見ていたから、反抗もしない『いい子』だったと思う」と振り返る。
 

琉球舞踊と英語

 父の影響もあり、琉球舞踊と英語が大好きだった少女時代。琉舞の研究所に通い、父の三線に合わせ家で踊ることもあった。乙姫劇団に憧れ、ウチナー芝居もよく見に行った。学校では英語の勉強が好きになり、単語を覚えるのが早いと褒められた。

 ただ、自身は「ごく普通だったと思う」。那覇高の仲の良い友人たちは卓球で国体に行くなど活発で卒業後は就職したり、開業したりしていた。美津子は英語を学ぶため琉球大に進んだ。「友人たちは度胸があって社会に出る自信があった。私は自分が立って行く道が、大学に行くことしかなかった」

 琉球大の英文学科に進み、郷土芸能研究クラブに入って組踊にも出演した。英語劇に取り組み、米国人から褒められ自信を持った。英字新聞の編集に携わるようになり、4年の頃、後に県知事となる大田昌秀の新聞学などの講義を受講した。英語を生かした同時通訳やジャーナリストに憧れるようになった。

 大学を卒業し米国民政府渉外局などに勤めた後、米オハイオ大大学院で学んだ。帰国後、東京にある英字新聞社への就職を勧められたが、両親の反対に遭い、沖縄に帰って米軍基地内にあるクバサキハイスクールの日本語教師になった。
 

「1人4役」からの転機

 復帰の年、同じ琉球大出身で高校の英語教師をしていた4歳上の利美と結婚。翌年には長女が生まれ、仕事と子育ての日々となった。基地内で日本語を教える一方、「沖縄の子どもたちには英語を教えたい。英語ができて国際的に活躍できる子を育てていきたい」と、1980年代に夫婦でベイビュー英会話学院を宜野湾市で始めた。

 そこから「1人4役」の毎日。妻、母、日本語教師、英語の指導。沖縄市に引っ越してからは英会話学院で教える子どもたちも一気に増えた。

 クバサキでの20年間の勤務を経て退職すると、期せずして転機が訪れた。90年に県知事に就任した大田がある日、利美を呼び出した。「夫婦のどちらでもいい。国際交流財団に来ないか」。利美は美津子を推薦した。

 家に帰り、利美は美津子に告げた。「君が一番適任だよ。行っておいで」。これからは国際交流の時代、ぜひやってみたいと美津子は二つ返事で引き受け、91年、県国際交流財団で初めての女性の専務理事に就任した。そこから一気に新たな人生が動き出した。
 

クバサキハイスクールに勤めていたころ。生徒たちを引率して東京を訪れた東門美津子さん=1980年代

 美津子の就任を多くの女性たちが歓迎した。大田県政は積極的に女性を登用した。人種や性別などの差別・格差を是正するアファーマティブ・アクションが大田の頭にあったと美津子は思う。大田は県知事公室に女性政策室を作り、県の女性総合センター、女性財団の設立に取り組んだ。

 当時の女性たちの動きは目覚ましかった。「沖縄で初めての女性副知事、(新聞社の)編集局長、学長という形で女性たちが動き出していた」

 美津子自身も県女性問題懇話会の座長を務め、県の男女共同参画計画「DEIGOプラン21」策定にも関わった。行政、政治、文化、経済と多様な分野で活躍する女性たちとの出会いが目を見開かせた。

 「社会活動をしている女性たちの魅力はとにかくすごかった。こういう社会があったんだと。家と仕事の行き帰りだった毎日から、女性たちのパワーに圧倒された」

 93年、懇話会の議論を取りまとめた提言書を大田に手渡した。男女平等を巡る意識変革や多様な生き方を可能にする条件整備、政策決定権を持つ首長、議員の選出・増員を施策の中で明確に位置付けるよう求めた内容だった。

 その頃、県の女性行政を軌道に乗せた沖縄初の女性副知事、尚弘子の後任に美津子の名前が挙がった。女性たちは美津子を大田に推薦した。

 「私なんかにできるのかと思ったが、こんなに素晴らしい女性たちがいるなら彼女たちの力を借りて頑張ってみよう」と引き受けた。
 

米軍基地と人権

 51歳で副知事となり、行政の世界へ飛び込んだ。福祉や医療、環境の担当を任され、県庁職員の優秀さに感嘆した。「一声掛けると全て答えが返ってくる。そんな感じだった」。県幹部の多くは年上の男性だったが支えてくれた。女性政策室の大城貴代子や垣花みち子らと関わり「彼女たちのおかげで仕事ができた」と振り返る。

 県庁内に課長級以上の女性職員でつくる女性管理者連絡会(ローズ会)があり、副知事室で女性の地位向上や県政の課題について意見を交わした。県庁や自治体、議員、メディアなどの女性らでつくる「みずの会」「県政を学ぶ女性の会」といった集まりもあり、女性たちが横のつながりを深めていた。

 大田は「やりたいことは何でもやりなさい。責任は僕が取るから」というリーダーだった。美津子は「政策決定の場に女性を」と力を入れた。
 

日本国憲法草案作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさん(前列中央)を囲む副知事時代の東門美津子さん(同右)と女性の仲間たち=1997年

 副知事時代、怒りをあらわにしたことがある。96年、米軍基地の整理縮小の是非を問う県民投票の準備が進んでいた。職員から「吉元政矩副知事が担当なので東門副知事はいいです」と言われ、思わず机をたたいた。

 「県民投票は男性だけでやるの? 女性は動かなくていいっていうの?」

 95年の少女乱暴事件を受け、母親、女性、ウチナーンチュとして許せないと、女性たちと共に声を上げ行動した。「基地問題は県民全体に関わる大きな問題。縦割りで物事を進めるのか」。そんな怒りだった。

 97年には美津子を団長に女性訪米団がワシントンなどを訪ね、人権や環境、教育の面でも基地があるが故に起こる問題を米政府などに伝え、兵力削減を求めた。痛感したのは米国人が「沖縄のことを知らなすぎる」こと。米兵の事件事故に「あなたの家族や親族が沖縄で何をしているか知るべきだ」と訴えた。

 今も時折聞かれることがある。「米国人をどう思いますか」。美津子はこう答える。「米国人は好きですよ。でも武器を持っている人は『良き隣人』にはなれない」
 

衆院議員、沖縄市長に

 98年、3選を目指した県知事選で大田は敗れ、美津子も副知事を退いた。そんな時、社民党から国政挑戦の打診が来た。とても迷った。

 だが「声が掛かったら『ノーと言うな』と女性たちに伝えてきた」ことを思い出した。利美も「君がやらないで誰がやるのか」と美津子を支えた。県庁で出会った女性たちも「東門さん、これで終わりじゃないよ」とハッパを掛けた。

 2000年の衆院選で沖縄3区から出馬。護憲の立場で「憲法改悪反対」「女性登用」「普天間飛行場の県内移設反対」を訴え、沖縄初の女性国会議員となった。森・小泉政権に対し、沖縄の基地負担軽減や日米地位協定改定を訴え続けた。
 

沖縄市長選で当確が出てカチャーシーを踊り喜ぶ東門美津子さん(右から2人目)。右端は夫の利美さん=2010年4月

 06年、これまでのキャリアや知名度を生かし、県内初の女性首長として沖縄市長に。2期8年を務めた。市民の暮らしを守り、子どもたちの笑顔が輝くまちにしたい。一方で、基地の被害にも向き合う日々だった。

 憲法の下に帰り、「基地のない平和な沖縄」になるはずだった復帰。だが、米軍関連の事件事故は起こり続け、新たな基地が建設されようとしている。「沖縄に憲法は本当に適用されているのか」。そう問いたくなる。「辺野古が唯一」と繰り返す政府に怒りと憤りしか感じない。体が許せば、座り込みの抗議の現場に飛んでいきたい気持ちでいっぱいだ。

 何も分からず飛び込んだ行政、政治の世界。学んだのは「政治がいかに深く私たちの生活に関わっているか」ということ。だからこそ若い世代に伝えたい。「社会がどう変わっていくかは政治を抜きには考えられない。声を上げて行動してほしい」

 意思決定の場にこそ、より多くの女性が必要だ。女性たちに支えられた経験から思う。「女性たちは響き合うものがあれば、手を取り合って一緒に前に進んでいける」。そう信じている。
 

 (文中敬称略)
 (座波幸代)