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宜野座高校(4)野球部創設に奔走、文芸に打ち込んだ青春 岡村正淳さん、浦崎康克さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
宜野座高校のグラウンドを整地する米兵ら=1960年ごろ(同校17期の卒業アルバムより)

 大分県の「風成(かざなし)漁業権裁判」や宮崎県の「土呂久鉱毒訴訟」などの環境訴訟や労働訴訟に携わり、人権派弁護士として活動してきた元大分県弁護士会会長の岡村正淳(76)は宜野座高校の18期。入学当初は、それほど勉強熱心ではなかったが、同級生の勤勉ぶりを見て「目が覚めた」という。

 満州(中国東北部)の生まれ。1960年に宜野座高校に入学した。大学進学を希望していなかったが、久志村(現名護市)天仁屋などから通う同級生に刺激を受けた。「教員になる夢を抱いた同級生が早朝に登校して一生懸命机に向かっていた」

岡村 正淳氏

 ひたむきな同級生に感化された岡村も一念発起し、猛勉強。国費学生制度で一橋大学に入学を果たした。判例を読みあさり、在学中に司法試験に合格した。

 2年間の司法研修のうち、1年4カ月を過ごした熊本県で「第一次水俣病訴訟にぶつかった」。その経験から弁護士としての針路が定まった。人権を守るために闘う弁護団との交流をきっかけに、福岡の法律事務所で働き始めた。

 元同僚の熱心な誘いで大分県に移る。「地方にはまだ労働事件や人権のため闘う弁護士の数が少なかった」。原発差し止め訴訟や安保法制違憲訴訟の弁護団代表として奮闘した。

 宜野座高時代の一番の思い出は野球部創部のため宜野座村役場や米軍キャンプ・ハンセンを回って寄付を募ったことだ。米軍は資金援助はしなかったものの、グラウンドの整地や中古のグローブやバットを提供してくれた。

 戦後の厳しい生活を経験し、パスポートで県外に渡った岡村にとって「会心の思い」は後輩たちが甲子園の土を踏んだことだ。「スポーツだけでなく、勉強でも後輩たちには大きな夢を持って人生を歩んでほしい」とエールを送る。

浦崎 康克氏

 宜野座高ナインが初出場した第73回選抜高校野球大会(2001年)のスタンドには、当時宜野座村長だった17期の浦崎康克(78)がいた。初めて導入された21世紀枠での出場は全国ニュースになり「これほどの村おこしはない」と喜んだ。

 実家は宜野座高のすぐ隣。宜野座中からの進学は自然の成り行きだった。国語教諭の松田国昭が実家で間借りしていたこともあり、宜野座高に親近感を感じていた。

 当時は金武や宜野座だけでなく、久志村や伊江島からも入学していた。土ぼこりが舞う軍用道路をバスに乗って通学する生徒や、家が遠いため周辺の民家で間借りする生徒もいた。

 浦崎は文芸に打ち込んだ。1年生から文芸クラブに所属し、1959年9月創刊の文芸誌「青巒(せいらん)」の創刊に携わった。顧問は松田だった。

 浦崎の短編小説「敗北」は、受験のため沖縄を離れ、初恋の相手と離ればなれになった青年を描いた。当時、米統治下の沖縄と本土との往来は船が中心だった。長時間を要する船旅から両地の間にある壁を連想させるような物語だ。

 創作だけでなく、発行費確保のための事業所への広告依頼や印刷会社との調整など、活動は多岐にわたった。編集後記で浦崎は「未熟な腕で大きな経験を得たことは『我が人生に偉大な光を与えた』と言っても過言ではない」と記した。卒業後は日本大学農獣医学部に進み、農業経済を学ぶ。

 大学卒業後、県職員を経て宜野座村役場に転職した。教育長時代は「宜野座高校を支える会」を立ち上げたほか、英語特別コースの設置に尽力した。96年から2期8年村長を務め、宜野座高を軸にした人材育成などに取り組んだ。

 「人口わずか5、6千人の村の発展は宜野座高校あってこそ」との信念は今も変わっていない。

(文中敬称略)
(北部報道グループ長・松堂秀樹)


 【宜野座高校】

 1946年2月 祖慶、福山、古知屋、中川、久志、大浦崎の各校を統合し、現在地に宜野座高等学校として創立
  48年4月 6・3・3制実施、新制高校として出発
  60年4月 琉球政府立宜野座高校に移行
  72年5月 日本復帰により県立高校に移行
 2001年3月 21世紀枠で春の甲子園に出場、ベスト4。8月、夏の甲子園に出場
  03年3月 春の甲子園出場