沖縄写真とは何か?「を撮る」のか 「で撮る」のか 写真家・浜昇


社会
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「ぬじゅんin沖縄・大和 視覚の現在’79写真展」の準備を進める(右手前から)写真家の石内都氏、比嘉康雄氏ら=1979年、ダイエー那覇店

 ガーブ川は「のうれんプラザ」あたりから暗渠(あんきょ)となって国際通りむつみ橋を横切り、沖映大通りを下って途中西に分岐し顔を出し、久茂地川に合流する。1979年に「ぬじゅんin沖縄・大和 視覚の現在’79写真展」(沖縄14人、大和15人が参加。以下ぬじゅん展と記す)が開催されたダイナハ(ダイエー那覇店)は、ガーブ川が分岐する位置にあり、いま同じビルにはジュンク堂書店が入居している。

 大型ショッピングセンター4階催事場全フロアを会場にして、大和の写真を沖縄で沖縄の写真家が受け入れ同じ場に展示することは、いまでは話題にもならないが、そのころではそれなりの出来事だった。沖縄人が抱え込まざるをえない日本本土との確執を、少しゆるめるゆとりがあったというよりは写真という外部からの要請にたいする応答であったと考えられる。

 1970年代になるとカメラ雑誌やメーカーギャラリーとは一線を画するかたちで写真家自らが場(メディア)を立ち上げる動きが各地で起こり、沖縄では「あーまん」が、東京では「プリズム」「CAMP」や「PUT」などの自主ギャラリーができた。

 それぞれがそれぞれの他者と向き合うことで、複数の関係性の交差が全国に築かれていった。当時、写真が記録から表現へとその可能性を希求するなかでそれに伴う表象の戯れを引き受けつつ、なおも返す刀で時代に掉(さお)さす開かれたメディアの発見が求められていた。

 ぬじゅん展の副題にある「視覚の現在」はPUTを起点にした活動の名称から来ており、そこでは各地の写真家とコラボしながら既存のメディアによらないネットワークが摸索されていた。この取り組みの延長として、「沖展」をはじめとする見慣れた美術展にあきたらない沖縄の写真家たちとの合同展がかなえられたともいえる。

 「沖縄を撮る」のか「沖縄で撮る」のか。この問にはひらがな一字のちがい以上の差異がふくまれているのではないか。ぬじゅん展以降もいくたびか沖縄の写真を展示してきたが、いまだその差異をなんと名づけたらよいのか分からない。表題の沖縄写真なるものはそもそもあるのか、ないのか。沖縄写真とは戦争・基地写真の謂(いい)なのか、いやそれだけではないだろう。

 不本意な死を強いられた死者は再び生きる権利があると聞く。沖縄写真があるとしたら、それはあたりまえと言われようと、その権利行使に少しでも参加が得られるか否かにかかっているのではないだろうか。

 「映画は世界を変えられないが、映画が変われば世界は変わる」(『チリの闘い』を撮ったP・グスマン監督の山形国際ドキュメンタリー映画祭でのメッセージ)。復帰50年、いま、写真は変われるのか、あるいは変えてはいけないのか。ぬかるむ窪地(くぼち)であった開南からガーブ川周辺に新たな地を余儀なくされながらも、乱立した闇市が、敗戦後の復興エネルギーを生み出していったそんな軌跡を思い描きながら、そのことを考えている。
 (写真家)

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 シンポジウム「沖縄写真の軌跡にむけて」が10日午後2時から4時、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館博物館講座室で開かれる。入場無料。定員は先着50人。講師は写真家の浜昇、北島敬三の両氏。進行は写真家の比嘉豊光氏。問い合わせはまぶいぐみ実行委員会(電話)090(6630)3597。