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宜野座高校(5)勉強と部活、畑仕事に追われ 石川正一さん、當山智士さん<セピア色の春―高校人国記>


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1970年代の宜野座高校本館(卒業アルバムより)

 大育情報ビジネス専門学校などを運営する学校法人石川学園の理事長、石川正一(77)は宜野座高校の18期。「筆執る我等に希望もえ 鍬持つ我等に力満つ」という校歌の歌詞を地で行くような、ペンと農具を握る高校生活を送った。

 1944年、金武村(現宜野座村)宜野座で生まれた。家は米やサトウキビを作る農家だった。小学生の頃から畑仕事を手伝った。

 60年、宜野座高校に入学。普通科ではなく商業科を選んだ。銀行への就職を希望していた。

石川 正一氏

 「金武にあった銀行の支店は午後3時にシャッターを下ろした。午後3時に仕事が終わるなら、その後は畑に行って親の手伝いができると思い込んでいた」

 金融機関の忙しさを知ったのは社会人になって後のことだ。

 柔道部に入部したが、稽古が終われば畑仕事。「遊ぶ暇はなかった。明るい時間は畑にいた」

 大学進学は考えていなかったが、2年生の時の担任は進学を勧めた。3年の担任にも「一浪覚悟で琉球大学を受験するように」と促され、石川は大学進学を目指す。

 昼は農作業、夜遅く机に向かい受験勉強に励んだ。卒業後は友人ら6人グループで宜野座高校の図書館で自習した。そのかいあって琉球大学商業科に合格した。「合格者名を放送するラジオ番組で自分の名前を呼ばれた時はうれしかった」と石川は振り返る。

 大学卒業後、公認会計士事務所で働く中で、人材育成の大切さを痛感し、学習塾を始めた。77年に大育簿記会計学院を創設。90年に石川学園を設立し、理事長となる。

 畑仕事に追われながら大学を目指した日々が人生の糧となった。「中学、高校時代で人生の9割が決まると言っても過言ではない。自分の青春を有効に使うべきだ。目標を定めて努力してほしい」と石川は力説する。

當山 智士氏

 ホテル業かりゆしの前社長、當山智士(62)は32期。「教育熱心の校風でありながら、生徒はバンカラな部分もあった」と語る。

 59年、久志村(現名護市)久志の生まれ。ベトナム戦争の頃、少年期を送った。「ベトナム特需のまっただ中。キャンプ・シュワブのある辺野古で働く人が久志にいっぱい住んでいて、にぎわっていた」と回想する。

 中学生になった當山も金武や辺野古の繁華街を出入りした。「友人の家族が経営するスーパーから仕入れたチキンを焼き、繁華街で米兵に25セントで売った」

 74年、宜野座高校に入学。海洋博の前年である。「本部町で友人と工事のアルバイトをした。日当は5500円だった」。当時の高校生にとって大金だった。

 駅伝部で活動した。「朝も晩も駅伝の練習ばかり。朝練で走り、夕食後も走った」。農繁期には家の畑を手伝った。部活動と畑仕事に励む多忙な高校生だった。

 教師の助言で国士舘大学体育学部に進む。「体育教師になるつもりだった」というが、父の知人の薦めで、帰郷後はかりゆしの前身、ホテル那覇に入社した。

 ホテルマンとして36年。観光振興を訴え、行動してきた當山は2020年3月に社長を退任し、現在は故郷でコロナ禍で苦しむ沖縄観光を見つめる。「沖縄観光は必ずV字回復する。今こそ沖縄観光の強靱(きょうじん)化を図るべきだ」と注文する。

 気になるのは母校のこと。生徒数の減少である。

 「宜野座高校は経済界などで多くの優秀な人材を輩出してきた。しかし、現在1学年3クラスとのこと。存続を危ぶむ声も聞く」

 當山は「やんばるの時代」の到来を見据え、「地域創造学科」の創設を提案する。「琉球大学などとの連携で次代を担う地域貢献人材の育成を図り、県内各地から学生を導いてほしい」

 沖縄観光の激動に身を置いた元ホテルマン當山の訴えである。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 【宜野座高校】

 1946年2月 祖慶、福山、古知屋、中川、久志、大浦崎の各校を統合し、現在地に宜野座高等学校として創立
  48年4月 6・3・3制実施、新制高校として出発
  60年4月 琉球政府立宜野座高校に移行
  72年5月 日本復帰により県立高校に移行
 2001年3月 21世紀枠で春の甲子園に出場、ベスト4。8月、夏の甲子園に出場
  03年3月 春の甲子園出場