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未来に伝える沖縄戦

<未来に伝える沖縄戦>スパイ教育受け情報班に 三中の同級生23人が戦死 宮里政欣さん

 今帰仁村越地で生まれ育った宮里政欣さん(93)=沖縄ツーリスト相談役=は県立第三中学校の3年生だった16歳の時に沖縄戦を体験しました。羽地の多野岳に本部を置く第三遊撃隊と合流し、情報班に配置され、スパイ教育を受けた後、米兵の動向を監視し日本軍に伝える業務に当たりました。米軍の沖縄上陸後は家族と自宅や防空壕に身を隠して一命を取り留め、戦後は観光業に従事しました。宮里さんの話を鏡原中学校3年の上原鷲惠さん(15)と、同2年の平良涼乃さん(14)が聞きました。


戦争体験を語る宮里政欣さん=12月30日、那覇市松尾

 ■    ■    ■

 《宮里さんは1928年、今帰仁村越地に7人きょうだいの長男として生まれました。42年に旧名護町中心部にあった県立第三中学校へ入学します》

 わが家は今帰仁村役場で働く父、母、姉、弟2人、妹3人の7人きょうだいです。父は若い頃のけがで足が不自由だったため、家族で支え合いながら暮らしていました。

 県立第三中学校(三中)には学生寮がないので、私は同郷の先輩を頼って旧名護町大兼久で下宿していました。希望に満ちあふれ充実した毎日を過ごしていましたが、1944年10月10日、県内各地で米軍による空襲があり、北部地域も相当な被害を受けました。それ以降、三中でも軍事教育が強化され、授業を受けられる時間は大幅に減りました。


 《学校当局は日本軍の防衛召集計画の趣旨に基づき、米軍が沖縄に上陸した場合には全校生徒を挙げて郷土防衛に参加するという構想の下、45年1月に三中学徒隊を編成しました》

 3、4年生はほとんどみんな鉄血勤皇隊(三中学徒隊)として戦場に送り込まれました。私は最初、通信隊の無線隊として八重岳に配置される予定でしたが、最終的には羽地の多野岳に本部を置いていた第三遊撃隊(護郷隊)と合流することになりました。

 第三遊撃隊は陸軍中野学校出身の村上治夫隊長というエリート中尉の下で、敵前訓練を実施していました。その後、小隊を編成したのですが、当時身長が1メートル20センチくらいしかなかった私は三中の2年生5人と共に、秘密遊撃戦に移行した時に備えて組織された情報班のメンバーとなりました。

 与えられた任務は敵兵の動向を監視し日本軍に報告することで、スパイの特別教育も受けました。私の担当地域は今帰仁と本部でしたので、自宅に戻ることが許されました。今帰仁と本部周辺を定期的に回り、米軍の動きや情勢を探りました。4日に一度、多野岳にある隊の本部から来た連絡員と羽地にある森の大きな木の根っこのくぼみで落ち合い、収集した情報を報告していました。

 3月下旬ごろには北部への空襲や艦砲射撃も激しくなっていました。敵の攻撃が少ない夜明け前に羽地内海の海岸線を通って、多野岳の部隊へ報告を続けていましたが、会えない時は情報を紙にまとめ、根っこに隠したこともありました。空襲が激しくなるにつれて、もうすぐ米軍が上陸することを悟りました。

 私の家族は米軍が上陸する前に乙羽岳のたもとにある呉我山に防空壕を掘っていたので、3月末ごろからは家族と一緒にそこに隠れていました。防空壕に移った後も情報収集の任務は続けました。壕内は狭いため、寝る時もみんな座ったままで気が休まることは一切ありませんでした。雨が降った時は特にきつくて大変だったことを覚えています。

※続きは1月12日付紙面をご覧ください。



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