歴代名護市長の「辺野古」への姿勢は?5人の市長の発言を振り返る


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名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸(小型無人機で撮影)=2021年8月

 16日告示、23日投開票の日程で市長選が行われる名護市は、新基地建設が行われている米軍キャンプ・シュワブを抱えている。新基地建設問題が浮上して以来、歴代名護市長は問題への対応を迫られてきた。これまでの市長がどのような姿勢で問題に向き合ってきたかを振り返る。

(22名護市長選取材班)

 

■歴代市長と辺野古

 米軍普天間飛行場の返還に伴う名護市辺野古への移設問題が1996年に浮上して以降、名護市長は基地建設受け入れの是非に直面してきた。歴代市政の対応をみると、容認姿勢を示して振興策などを国に求めた市長がいた一方、移設反対を明確に訴えた市長もいた。

 日米は96年12月のSACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終報告で普天間飛行場の返還と、辺野古を念頭とした「本島東海岸沖」への代替施設建設を決定した。97年12月に基地受け入れの是非を問う名護市民投票が実施され、条件付きを含む反対票が過半数を上回った。だが、当時の比嘉鉄也市長は移設受け入れを表明して辞任した。

 比嘉氏の辞職に伴う98年2月の市長選では比嘉氏後継の岸本建男氏が当選。岸本氏は99年12月に15年の使用期限など7条件を示し移設容認を表明した。2006年には、岸本氏後継の島袋吉和氏が現行計画のV字型滑走路案で国と合意。10年まで続いた島袋市政の下、国は基地建設に向け環境アセスメントを進める一方、市に基地建設に伴う再編交付金を交付した。

 10年1月の市長選では辺野古移設反対を明確に訴えた稲嶺進氏が当選した。2期8年続いた稲嶺市政下でも国は基地建設を強行する姿勢を崩さなかった。国は13年12月に仲井真弘多県政(当時)から埋め立て承認を得て、17年からは海上での護岸工事に着手した。

 18年2月の市長選で当選した渡具知武豊氏は新基地建設について「県と国の係争の推移を見守る」との立場を取り、賛否は明言していない。国は稲嶺市政で打ち切っていた再編交付金を渡具知市政には交付する一方、18年12月には土砂投入を開始するなど、基地建設の強行を続けている。