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79歳「野菜については1年生」 商売は秤ひとつで 小禄青果店<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈25>


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小禄青果店を創業し、今も店に立つ小禄悦子さん=那覇市松尾

 建て替え工事が進む公設市場には、敷地の北西側に搬入口があり、工事車両が行き交っている。この搬入口の向かいに、「小禄青果店」がある。創業者の小禄悦子さん(79)は、1942年、7人きょうだいの次女として粟国島に生まれた。「うちは分家の分家で、畑もいいの持たないし、小さい頃はひもじい思いばっかりしてきました」。幼い日を振り返り、悦子さんはそう語る。

 「うちの母は、子どもを絶対遊ばさなかった。小さい島で、水に不便していたから、毎日、水くみに行って。潮が引いて水がたまっているところで洗濯物をしたり、海で体を洗うわけ。朝なんかも、芋を掘ってから学校に行きよったですよ」

中学3年で那覇に

 両親は農業を営みながら、塩を作り、蚕を育てて生計を立てていた。父・朝清さんは学校の「小使さん」としても働いていたが、先生から「うちまで弁当を取りに行ってきてくれ」と走らされることもあった。小学校に通わず育った朝清さんは、「子どもたちは大学に通わせよう」と懸命に働いていたが、悦子さんが中学校に入学する春に病気で亡くなった。男兄弟を大学に通わせられるようにと、悦子さんは中学3年のときに粟国島を出て、那覇に渡った。

 「最初は琉球大学の先生のおうちに、住み込みで入ったんです」と悦子さん。「家政科の先生だったから、お料理もちゃんとやりなさい、掃除もきれいにやりなさいって、厳しかったですよ。そこで3年お世話になったあと、今度は軍メイドの仕事をしてました」

 軍メイドの仕事は給料がよかったものの、住み込みで働いていると、外出できる時間は限られていた。姉のハツさんから「軍にいては駄目」と反対され、代わりに紹介された仕事が、ハツさんの夫の親戚が営んでいた公設市場の青果店だった。

 「昔の商売って、怖いぐらい大変でしたよ。右も左もわからなかったけど、農連市場に仕入れに行くと、おばあちゃんたちが教えてくれた。おばあちゃんたちは学校も出ていない、字も書けないけど、『この商売は秤(はかり)ひとつで食べていけるから』って。これがおばあちゃんたちの口癖でしたね」

いつも1年生

店頭に並ぶ伊江島産の島らっきょう
出荷時期になると注文が殺到するタンカン

 親戚の青果店を譲り受けた悦子さんが、「小禄青果店」と看板を掲げるようになったのは、小禄幸雄さんと結婚してからのこと。最初はごぼうを扱うお店から出発し、手を真っ黒にしながら働いているうちに、扱う品目も増えてゆく。

 「野菜はね、値段の変動が激しいんです。今日は100円でも、畑に入れん日が続けば、数日後には500円になる場合もある。何十年勉強しても、野菜に関してはいつも1年生。良品と思って仕入れてきても、売り物にならないこともあって、夫婦げんかになることもありましたよ。だから、子どもたちには『どんな仕事でも、夫婦で一緒にやっては駄目よ』と言っているんです」

 悦子さんはそう言って笑うが、夫婦ふたり、力を合わせて必死に働いてきた。その甲斐あって良いお客さんたちにも巡り会えた。繁忙期になると注文が殺到し、それに応えられるようにと死に物狂いで働いてきた。30年ほど前に公設市場の向かいにも店舗を構え、通りを挟んで営業してきた。

建て替え前の牧志公設市場が営業していた時期の小禄青果店=2019年4月6日

 悦子さんがまちぐゎーで働き始めて、62年が経とうとしている。半世紀前にも公設市場の建て替えを経験しているから、建て替え工事は今回で2回目だ。2019年7月からは仮設市場でも営業を続けていたが、新しい公設市場が完成しても、「小禄青果店」は入店しないことに決めた。

 きっかけとなったのは、夫が体調を崩したことだった。悦子さんは、昼はお店を切り盛りしながら、夜は看病を続けてきたけれど、幸雄さんは去年の初めに亡くなった。

 「お酒も飲まないし、遊びに出ることもなくて、お父ちゃんは昼も夜もずっと働き通しだったんです。どちらかひとりは店を見てないといけないから、一緒に旅行というのもできなかった。お父さんがいなくなって、寂しいですね」

おおらかな心で

建て替え工事が進む第一牧志公設市場の工事車両が出入りする搬入口の向かいで営業する小禄青果店(左)=那覇市松尾

 この1年は、慌ただしく過ぎていった。

 緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が繰り返され、そのたびにまちぐゎーの人通りは激減した。ようやくコロナ禍が落ち着きを見せ、通りに活気が戻り始めたところで、新しい牧志公設市場の開業は1年延期になると発表され、関係者は落胆した。半世紀前には1年足らずで新しい市場が完成したが、建築に求められる基準も厳しくなり、工事は難航している。

 昨年12月以降は、オミクロン株の感染拡大の影響を受け、ふたたび臨時休業を余儀なくされるお店も続出している。ただ、通りに活気が戻ってくる日を信じて、「小禄青果店」は営業を続けている。今は悦子さんの長男・賢さん(44)や長女の愛子さん(49)も一緒にお店を切り盛りしている。

 「本当はね、この商売は自分の代で終わりでいいなと思っていたんです」と、悦子さんは笑う。「商売っていうのは、気が小さいと大変ですよ。とにかくおおらかな心で、何でも根に持たずに忘れること。古いことは忘れてしまって、新しいことだけ考えないと。常に前を向いて、一生懸命やるしかないですよ」

 1月21日には、夫・幸雄さんの一年忌を迎えた。悦子さんはこの日仕事を休んだものの、翌日からまた、「小禄青果店」で働いている。常に前を向いて。その言葉を胸に、悦子さんは今日も店頭に立っている。

(ライター・橋本倫史)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2022年1月28日琉球新報掲載)