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宜野座高校(8)服装検査に授業ボイコット 野球に明け暮れた日々 儀武剛さん、仲間一さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
学校の姿勢に反発し、授業ボイコットを呼び掛けた35期の生徒ら=1979年(宜野座高校創立五十周年記念誌より)

 行動力と交渉力を高校時代に培ったという。元金武町長の儀武剛(60)は宜野座高校の35期である。

 金武小学校の高学年の頃、地域調査活動に参加した。「ばい煙でどこまで洗濯物が汚れたか」という課題を出され、集落で聞き取り調査をした。その経験が「環境に配慮した農業こそ沖縄発展の鍵になる」という信念につながった。

儀武 剛氏

 金武中を卒業し、1977年に宜野座高校に入学した。強豪の空手部に入部し、防具付きの組手で全国制覇した2期上の先輩らにしごかれながら、あいさつや礼儀作法を学んだ。応援団にも加入。地域の陸上大会では空手の型を演じて選手を鼓舞した。

 79年、3年生になった儀武は学校への異議申し立てを企てる。1学期、説明がないまま服装検査やパーマ禁止など生徒を厳しく締めつける学校の姿勢に抵抗し「授業は受けなくていい。屋上に集合してくれ」と生徒に呼び掛け、授業をボイコットしたのだ。

 生徒と教師が2日ほど主張をぶつけ合った末、両者は「互いに協力し合って素晴らしい宜野座高校をつくっていこう」と確認した。

 儀武らリーダー格の生徒は校長室に呼び出されたが、おとがめはなかった。校長は「みんなのことを考えての行動だったんだな」と告げたという。「納得がいかないことはきちんと主張して交渉することを学んだ」と儀武は述懐する。

 南九州大を卒業後、86年町役場入り。総務財政係長を経て2002年に金武町長に就任し、3期務めた。現在はロボットや人工知能(AI)などの先端技術を農業現場で活用する「スマート農業」の可能性を追求し、国内外の人脈と情報交換する。儀武は「自然豊かな環境で、人間としての心を養う場所だった」と母校を懐かしむ。

仲間 一氏

 儀武の後継として14年に金武町長となった仲間一(67)は28期。日本復帰2年前の1970年に入学した。宜野座高校は、72年の復帰とともに琉球政府立から県立に移行した。仲間は県立宜野座高校の1期生である。

 5月15日の復帰の日、記念行進に参加し、日の丸の小旗を振ったことを懐かしむ。「復帰によって修学旅行に行くときに必要だったパスポートがいらなくなった」。実感を込めて「アメリカ世」の終焉(しゅうえん)を振り返る。

 金武町金武で生まれ育った。宜野座高校へはバス通学。金武のバス停には名護市辺野古のバスターミナルに向かうバスが15分おきに停車した。今よりもにぎやかな時代だった。「当時の宜野座高校は1学年240人ほどが在籍していて、活気があった」

 仲間は野球部に所属し、放課後は練習に明け暮れた。守備は一塁。体が柔らかく、捕球のうまさが認められた。打順は2番から9番まで満遍なくこなした。卒業後も学童野球「金武雄飛」の指導に当たり、社会人野球チームでも活躍した。

 2001年の第73回選抜高校野球に後輩たちが出場した時の感動は忘れられない。仲間は甲子園に駆け付け、スタンドから後輩を応援した。「甲子園で校歌が流れた瞬間、涙があふれた」

 創立から76年。少子化や学校選択の自由などで入学希望者が減少している。高校の存続を危ぐした宜野座村は1995年、「宜野座高校を支援する懇話会」を発足させた。魅力ある高校にするための取り組みの一つとして2006年に特進クラスを設置。10年には宜野座村営学習塾「21世紀みらい」を開講した。

 18年度から定員割れの状態が続いているが、仲間は「毎年国公立大学への進学者も出ている。4月には制服も刷新されるので、さらに魅力ある宜野座高校になることが楽しみだ」と語り、母校の発展に期待を寄せている。

(文中敬称略)
(北部報道部・松堂秀樹)

(宜野座高校編はおわり。次回から前原高校編です)

 


 【宜野座高校】

 1946年2月 祖慶、福山、古知屋、中川、久志、大浦崎の各校を統合し、現在地に宜野座高等学校として創立
  48年4月 6・3・3制実施、新制高校として出発
  60年4月 琉球政府立宜野座高校に移行
  72年5月 日本復帰により県立高校に移行
 2001年3月 21世紀枠で春の甲子園に出場、ベスト4。8月、夏の甲子園に出場
  03年3月 春の甲子園出場