<未来に伝える沖縄戦>父と兄前線へ、家族ばらばらに 祖母に再会もすぐに死別 内間シズ子さん


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 浦添村(現浦添市)沢岻で生まれ育った内間シズ子さん(87)は10歳の時に沖縄戦を体験しました。自身は母と妹、弟と共に本島北部へ疎開し、終戦を迎えました。父と兄は防衛隊として前線へと送られ、祖父母と姉たちは島尻へと逃げて、家族はばらばらになりました。内間さんの体験を、浦添市立港川中学校1年の上田やよいさん(13)と長嶺琉生さん(13)が聞きました。

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 《内間さんは1934年12月10日、浦添村沢岻で7人きょうだいの5番目として生まれます。41年に浦添村仲間にあった浦添国民学校(現浦添小学校)に入学します》

戦争での体験を語る内間シズ子さん=1月17日、浦添市伊祖

 沢岻にあった家から学校があった仲間までとても遠くて、通うのが大変だったのを覚えています。背が低くて歩くのが遅かったので、学校の始業時間に間に合わず、よく遅刻しました。遅刻すると先生に叱られて、廊下に立たされたので授業を受けられませんでした。

 結局入学して1年もたたないうちに、学校に行かなくなりました。でも学校に行かないと母に叱られるので、学校に行ったふりをして、学校の近くの山で過ごしていました。山には果物がたくさん実っていたのを覚えています。

 父は家畜の売買で生計を立てていました。母は身体が弱かったので、私はまだ小さかった弟を背負って食べ物を探しに出たり、草刈りを手伝ったりしていました。

 ある時家の近くで遊んでいると、頭の上を何機もの戦闘機が通って行きました。「戦争が来たんだ」。子どもながらにそう感じたのを覚えています。

 その後、父と兄が防衛隊に取られて、戦地に送られました。父は島尻方面に、兄はハワイに行ったようでした。寂しさを感じるというよりも、いつの間にかいなくなっていた感じでした。この時もまだ戦争が身近に迫っている実感はありませんでした。

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 《44年の10・10空襲以降、疎開への意識が県民の間で高まりました。県は45年2月、緊急市町村会議を開いて、本島中南部に住む住民の疎開先を国頭村や大宜味村など北部9町村とする疎開計画を出しました。浦添の人々が疎開したのは、国頭村の伊地、与那、謝敷、佐手、辺野喜、宇嘉、宜名真、辺戸の8集落でした》

 父と兄が防衛隊に取られた後、祖父母と次女、三女は島尻へ、母と私、妹と弟は北部へと逃げることになりました。

 私たちは風呂敷にお米や鉄の鍋、着替えを入れて疎開を始めました。同じ部落の3家族も一緒でした。大人たちが「戦争が始まる」と言っていたような記憶があります。

 母は幼かった弟をおんぶしていたので、私が全ての荷物を背負っていました。当時ははだしで過ごすことが当たり前だったので、はだしで山道をずっと歩きました。足が痛くて、とにかく「履き物がほしい」と思っていました。

 妹は「おなかがすいた」と言って、すぐに道に座り込んでいました。その度に私は妹の手を引っ張って無理やり歩かせました。夜はみんな道ばたで固まって寝ました。

 一緒に疎開した家族の中には私と同じ年代の兄弟がいて、その兄弟は移動中に母親とはぐれてしまっていました。その子たちがおなかをすかせているのは分かっていたけど、分けてあげられないくらい、みんな食べ物に困っていました。

 途中で名護にあった学校に寄ったのを覚えています。そこでは部落の人がおにぎりを握ってくれていました。でもそれ以来、人目につくところには行かず、山の奥深くに入って、隠れながら移動しました。

 山にいる時、時折戦闘機の音が聞こえました。ご飯の支度をしている時に戦闘機の音が聞こえると、大人たちが「煙が上がると大変」と火を消すよう指示しました。煙が上がっているのが分かると米軍に攻撃されるからです。

 当時はどこに向かって逃げていたのか、分かっていませんでした。とにかく大人に言われた通りに歩き続けました。まだ子どもで、大人の言うことを信じて行動するしかなかったんです。

 国頭村まで逃げたのは覚えています。ですが、ある時、一緒に移動していた大人たちが「浦添に帰った方がいい」と言い出し、引き返すことになりました。その時に戦争が終わっていたのか、なぜ大人たちが急に帰ろうと言い出したのかは分かりません。

※続きは2月9日付紙面をご覧ください。