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クラス半数が女子…に戸惑い、ソフトボールで全国総体に出場 當銘由親さん、中村正人さん 前原高校(3)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
バレーボールを楽しむ生徒(創立40周年記念誌「肝高」より)

 「しろがねの水脈(みお)のしぶきは さえざえと」の歌詞で始まる前原高校の校歌が制定されたのは、創立から20年を経た1965年11月である。その前にも校歌があった。

 「松風冴えてほのぼのと 明け紫のコンセット」

當銘 由親氏

 旧校歌の制定は1946年9月。コンセット(カマボコ型)の校舎が並んでいた与那城村(現うるま市)西原の様子を歌っている。作詞は国語教諭の伊計雅夫。作曲は初代校長の外間政章となっているが、実際には米軍の学務監督官が紹介した聖歌の曲を用いた。

 3期生で具志川市(現うるま市)の市長を5期務めた當銘由親(90)は旧校歌を口ずさみ懐かしむ。「賛美歌みたいな歌だった」

 1931年、具志川村豊原で生まれた。44年、県立第二中学校に入学。日本軍の陣地構築に駆り出される毎日だった。10・10空襲で校舎を失い、生徒は金武国民学校に移動した。45年3月末、米軍の猛攻が始まり4月1日に上陸。當銘は4月上旬、具志川村昆布で米軍に捕らわれた。

 収容地区となった豊原に戻ったのは11月ごろ。各地の避難民でごった返していた。「自分の家にも知らない家族が住んでいた。頼んで中に入れてもらった」。その頃、前原高校の開校を周囲に聞かされた。「学校ができたので行った方がいい」と言われ、當銘は2年生に編入した。

 テントが並ぶ学校で各地の旧制中学の生徒が共に学んだ。特に那覇出身の同級生が多かった。具志川村の海沿いに那覇の避難民や引き揚げ者が暮らす金武湾集落(現在のうるま市具志川)が生まれ、にぎわっていた。「一中、二中、水産、農林、師範の生徒が集まり、ごっちゃになっていた」

 前原高校は男女共学。クラスの半分は女生徒だった。男生徒だけの県立二中で学んでいた當銘は「女子に友だちができる生徒は良かったが、私は戸惑っていた」と振り返る。

 卒業後、熊本商科大学に進む。帰郷後、教職に就くが周囲の勧めで議員となる。74年、具志川市長となり5期20年務めた。

 貧しい環境の中で学んだ。軍隊精神から抜けきれない先輩による制裁もあったが、高校生活は楽しかった。「学校は民主的な教育で、生徒は希望を抱いていた」

中村 正人氏

 現うるま市長の中村正人(56)は38期。男子ソフトボール部で活躍した。教師の一声が自信を失っていた中村を変えた。

 1965年、具志川市安慶名の生まれ。安慶名小学校、安慶名中学校を経て80年に前原高校に入学した。スポーツをしたい一心だったが、出だしでつまずいた。

 「野球部に入っても甲子園には行けそうにない。ハンドボール部に入ったものの、私の実力では無理だった」

 部活をやめた中村は「ぶらぶらしていた」。そんな姿を見かねた国語教師がいた。ソフトボール指導者の香村勉(元県ソフトボール協会会長)である。

 「2年に上がって5月ごろだったと思う。先生から『正人、だらだらしていたらダメ人間になるよ』と声を掛けられ、ソフトボール部に入った。行儀が悪かった私をスポーツで更生しようと思ったのだろう。うれしかったですよ」

 入部以降、中村は真剣にソフトボールに打ち込み、82年の全国高校総体に出場した。

 卒業後、大分県の日本文理大学に進む。帰郷後は家業に励みながら前原高校でソフトボールを指導した。地域の青年会活動にも力を入れた。これらの活動を踏まえて若い世代の声を市政に反映すべく98年に市議となり6期22年務めた。2021年にうるま市長に就任する。

 政治の道を歩んで24年。最近、若い世代に向かって「何がしたいの。この街をどうしたいの」と問い掛ける。中村は若者を交えた参加型の街づくりを目指している。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場