準決勝で解禁した「秘密兵器」の守備 初の全国制覇にベンチで涙<興す沖縄ハンド・名将 黒島宣昭の歩み>3


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興南が全国選抜で初優勝した時のメンバー。黒島宣昭さん(後列左から6人目)も笑顔でガッツポーズを決める=1999年3月、大阪市中央体育館

 《高さのある全国の強豪に阻まれ、なかなか日本一に手が届かない興南。黒島宣昭さんは、神森中時代の同級生で、当時同中学のコーチだった東江正作さんと、全国と渡り合うための戦術を相談していた》

 神森中とはよく練習試合もしていて、東江と戦い方について話をしていた。当時の主流は(ゴールエリアラインに沿って横に並ぶ)一線守備だったけど、神森中が高い位置から積極的に仕掛けて速攻につなげる「1―2―3」守備を導入して、1997年に全国を制覇した。高校でこのシステムをやっている学校はほとんどなくて、自分たちも練習し始めた。

 コートを動き回ってボールを奪いにいくから、一線守備より運動量が断然多い。だから練習のほとんどは守備と走り込み。フットワークや1対1、試合形式など全メニューが終わった後、校庭に下りる長い階段で上りダッシュを20~30本、やっていた。選手はかなりきつかったと思う。

 《迎えた99年3月の全国選抜。2回戦から登場した興南は初戦を危なげなく突破した。1―2―3守備は「秘密兵器」としてまだ使っていなかった》

 ずっと一線で守って隠していた。ただ、勝てると思っていた3回戦の洛北(京都)戦は危なかった。ふたを開けたらずっと負けていて、最後1点差でなんとか勝ち。準々決勝から父母も応援に来ると聞いていたから、負けたらどうしようという気持ちだった。

 新たな守備を解禁したのは、開催地大阪の第1代表だった此花学院と当たった準決勝。高さで劣っていて、前半15分で7点リードを奪われた。今は前後半30分ずつだけど、当時は25分。勝負どころだと感じてタイムアウトを取り「1―2―3守備を敷け」と言った。

 《再開と同時に高い位置から圧力を掛けられた相手は動揺した。興南はミスを誘い、速攻や個人技で得点してじわじわと追い上げ、前半を終えた時点で10―11と1点差に迫った》

 相手の攻撃のリズムが崩れ、後半に逆転して一気に突き放した。終わってみると逆に7点差をつける25―18。翌日、大阪第2代表の桃山学院との決勝では、初めから1―2―3守備で仕掛けた。うちのペースで試合を進めることができた。

 《会場は相手ホームにもかかわらず、異彩を放つ興南のプレーに拍手が響く場面も。黒島さんは監督16年目の38歳。試合時間残り5分、ベンチで徐々に胸が熱くなるのを感じていた》

 終盤で3、4点くらいリードした。勝負ありだなと思った瞬間、感情がぐっと込み上げてきてね。もう試合中からベンチで泣いていた。初の全国制覇を決めた瞬間は選手も大喜び。「やるからには日本一」という目標がやっとかない、ずっと一緒にやってきた玉城克也部長と「優勝おめでとう」と言い合った。

 1―2―3は運動量が多いから、他の指導者から「どんな練習をしているんですか」「相当な練習をしているんじゃないですか」と聞かれた。あの時はキーパーの宮城正利が良くて、主将の新垣弘樹や久高清満ら高さはないけど運動能力の高い選手が多かった。スピードがあって、動いて、守って、体力があって。新しい守備システムに適したメンバーだった。攻撃でも、どこからでも点が取れた。

 全国制覇を境に選手たちの進路面がだいぶ変わって、強豪大に行きやすくなった。この頃は小中も含めて各カテゴリで毎年のように沖縄が全国優勝していて、入ってくる学生もいい選手が増えていたね。

(文責・長嶺真輝)