興南の「黄金世代」が全国3冠を達成するまで 敗北が糧に 絆で乗り越え<興す沖縄ハンド・名将 黒島宣昭の歩み>4


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全国総体準決勝 黄金世代でエースを張った棚原良=2005年8月、千葉県佐原市民体育館

 《1999年の全国選抜で母校を初の日本一に導いた黒島宣昭さん。次なる目標は選抜、総体、国体の全国3冠。初めにチャンスがやってきたのは2003年だった》

 この時期は興南にとって全盛期の一つ。主将の名嘉伸明を中心に、高田匠や前里卓実など有力選手がそろっていて、けが人が続出する中でも選抜で優勝できた。春には当山小、浦西中で全国を制した棚原良、東長濱秀希(ジークスター東京)、石川出(琉球コラソン)らが入学してさらに戦力がアップし、全国総体で初優勝して2冠。そのまま国体も取れる感覚があった。

 でも国体は京都に1回戦負け。国体は有望な選手を選抜するから選抜や総体よりレベルアップする県もあるし、戦術的にも悪かったかなと思う。私の気の緩みもあった。高い位置からの守備をするチームはまだ少なかったけど、研究されているとも感じた。

 《04年も選抜を制して2連覇したが、夏に落とし穴が待っていた。6月の県総体決勝で那覇西に24―27で敗北。棚原ら「黄金世代」の2年生主体のチームは集中を欠き、いら立ちからミスをする場面が目立った》

 この負けは相当なショックだった。特に小学校からほとんど負け無しの選手にとっては屈辱的だったと思う。翌月にはアジアの強豪・韓国に初めて遠征に行って、強化を図った。

 この世代は精神面に非常に気を使った。練習中からよく「気を抜くな」「絶対に相手をなめるな」と言っていた。個々の能力が高くて攻撃力がすごかったから、いつでも点が取れるという気持ちになってしまい、必死で守備をする意識が薄かった。

 《04年の国体でも初戦で1点差の逆転負けを喫し、度重なる敗北を糧に精神面で徐々に成長していった選手たち。練習に取り組む姿勢に変化が生まれていく》

 練習に対する意気込みがそれまでと変わった。走って、声を出して。この世代は高さのある選手が多くて一線守備が主体だったけど、全国では同じような体格のチームもある。心配だったので選抜に向けて1―2―3守備も準備した。

 選抜を3連覇して、総体も優勝し、一番重圧を感じたのは岡山であった国体。初戦の前日に40度近い熱を出して、注射を打った。気を張っていたのかもしれない。なんとか試合には行けたけど、民宿の方にはとても迷惑を掛けた。2年前に初戦で負けて3冠を逃した反省があったから「油断するな」と話していたけど、選手たちは小中と全国優勝をしてきたメンバーで、自信もあったと思う。プレッシャーを感じている様子はなかった。

 《迎えた10月の国体本番。初戦から大きく点差を離して勝利を重ね、決勝の福井(北陸高)戦は38―21で圧勝し、ついに全国3冠を達成した》

 優勝した瞬間はほっとしたというのが一番。この世代は50年に1度あるかないかというメンバーで、「勝って当たり前」という戦力だった。3冠を取らないといけないというプレッシャーも大きかった。12月には日本協会の推薦で日本リーグとか大学チームも出る全日本総合選手権に出場して、初戦でその年の大学王者の筑波大と対戦した。1点差で負けたけど、勝ってもおかしくない試合だった。すごかったな。

 1999年に初優勝して以降、なかなか県内でも優勝できない時期があった。その時に自分が興南の現役時代の一つ先輩だった、東長濱秀吉さんが当山小や浦西中でコーチをしていて、息子の秀希や棚原を育てて興南に送ってくれた。OBの絆に助けてもらい、達成できた3冠だった。

(文責・長嶺真輝)