強豪チームを育てた39年間…常に意識してきたこと 教え子の活躍、喜びに<興す沖縄ハンド・名将 黒島宣昭の歩み>5


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選手に1対1の守り方の指導をする黒島宣昭さん(右)=2021年11月、那覇市の興南高校(喜瀬守昭撮影)

 《2005年に初の全国3冠を達成後も、興南は度々日本一に輝いた。14年には2度目の全国3冠という偉業を成し遂げる。総体では小林秀峰(宮崎)との決勝で41―27の大差を付けるなど無類の強さを誇った》

 170センチ台が多く、大きな選手はいなかったけど、伊舎堂博武(トヨタ車体)や森田啓仁(琉球コラソン)、宮國央芽(ジークスター東京)ら1対1に強い、個性のあるチームだった。全国でも力が抜きんでていた。中学で一緒に全国優勝しているメンバーも多く、チームワークも良かった。

 小中の指導者によって全国レベルに育てられた多くの選手たちが興南の門をくぐってきた。そういう選手を預かることに、常に責任を感じていた。ハンドボールを通じて人間形成を促し、次に渡す。入り口から出口まで。それが自分の一番の仕事だと思っていた。卒業後も子どもたちがしっかり活躍してくれるのは、うれしく思う。

 《日本代表選手も多く輩出した。昨夏の東京五輪では東江雄斗(ジークスター東京)が日本男子の攻撃の司令塔を務め、初めて教え子が五輪の舞台に立った。ハンドボール男子の県勢オリンピアンは、黒島さんの一つ年下で1988年ソウル大会に出た荷川取義浩さん(北国銀行監督)以来2人目という快挙だった》

 雄斗が出場したのは本当にうれしかった。代表発表の中継をパソコンで見ていて、その日に本人から「選ばれました」と電話がきてね。指導者冥利(みょうり)に尽きる。神森中で同期の東江正作の息子で、小さい頃からプレーするのを見ていた。スケールの大きな、将来が楽しみな選手だと思っていた。大学、実業団で一回りも二回りも幅が出てきた。本番はけがもあって完全燃焼してないと思うけど、次のオリンピックも目指すと言っていたから、また出場してほしい。

日本代表として東京五輪に出場した教え子の東江雄斗(右)と黒島宣昭さん(提供)

 《全国優勝は総体6回、選抜5回、国体3回を数え、39年間で母校を屈指の強豪に育て上げた。昨春の定年を節目に、一線を退くことを決意した》

 今後も沖縄ハンドが強さを発揮するためには、指導者を育て、増やさないといけない。いずれは自分も引き継がないといけないと思っていた。

 39年は教え子の子どもが入学してくるくらいの期間。2世代で教えた子もいた。いい時も悪い時もあったけど、指導者の先輩や協会の方々、OB、父母会には本当にバックアップしてもらった。大事にしたことは謙虚な気持ちでいること。38歳で優勝した時も「絶対鼻高になるな」とよく言われた。素直な子がよく伸びるから、それは選手にも伝えていた。

 次男の諄(じゅん)がいた2010年の美ら島総体ではベスト8、三男の誠(なり)が主将だった13年の北部九州総体では、まさかまさかの親子で全国制覇ができた。選手に恵まれたおかげでいろいろな経験ができた。今後もハンドボールに関わっていきたい。私自身、ハンドに成長させてもらったから。

(文責・長嶺真輝)