遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(68)が、戦没者遺骨が残る本島南部からの土砂採取の中止を求め、那覇市内でハンストを行って1日で1年がたった。具志堅さんの元には、県外の遺族からも賛同が寄せられている。「何もできず申し訳ない」―。糸満市米須で父親が亡くなったとみられる湯本多美子さん(83)=福井県越前市=は、やり切れない気持ちを手紙に込めた。
湯本さんの父親の青木武夫さんは1943年夏、32歳で出征。当時5歳の湯本さんは、3歳の弟の手をひいて自宅近くの踏切で父が乗る列車を待った。「笑顔とも悲しい顔ともつかない」表情の父を見送ったのが最後だった。
父は中国戦線から沖縄へ。自宅に届いた白木の箱の中に遺骨はなく、氏名を記した紙切れが入っていた。除籍簿には「昭和二十年六月二十一日時刻不詳沖縄本島島尻郡米須ニ於テ戦死」と記されていた。
辺野古新基地建設に伴い、米須を含む本島南部から土砂搬出の可能性がある。具志堅さんは、遺骨は風化して石灰岩や土と同化し、混ざらない状態で土砂を採取することは難しいと指摘する。湯本さんは「土砂に父の骨や血がしみ込んでいるかもしれない。日本人でもアメリカ人でも、戦争の犠牲者を軍事基地に使うことは人道上許されない」と話す。
父親は遺言状に「お国のために立派に死んできます。子供は明るく育ててください」と書き残した。湯本さんは「死を当然とするなんて考えられない。父は有無を言えず従ったが、リーダーを選んだ責任の一端は父にもあったと思う」と指摘する。
地元紙の報道で、具志堅さんの呼び掛けを知り、地元の越前市議に電話した。同市議会で意見書可決の動きにつながった。「戦争は人と人との殺し合い。決してあってはならない」と軍事によらない平和を求める湯本さん。
戦後、訪れた沖縄で大勢の住民が戦争に巻き込まれ、家族を亡くしたことを知った。今も基地の集中など沖縄に苦しみを負わせていることにつらい思いを抱く。「本当に申し訳ない、その思いは今も変わりません」
(中村万里子)