宮平初子さんを悼む 首里織物、美にこだわり 柳悦州・県立芸術大客員教授


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首里織を手にする宮平初子さん(左)=1992年10月、那覇市首里の工房

 宮平初子さんは県立女子工芸学校在学中(1939年)に、柳宗悦を初めとする日本民藝協会一行の世話係として活躍された。その後上京し駒場の柳宗悦宅に住み込みながら、私の父・柳悦孝から織物を学んだ。首里汀良町の工房兼自宅を訪ねると、当時の話を昨日のように話されるのだが、曽祖母や祖母の話など、私の知らない事柄が多く興味深く拝聴したのが思い出される。また、戦前の首里の街並みや女性の着物姿の話を懐かしそうにされていたのも印象に残っている。

 戦後の沖縄復興期には大変苦労された。沖縄における工芸織物の先達として、伝統的でありながらも今より自由な創作活動をされていたように思える。また沖縄の伝統工芸の中核的な存在でもあった。

 75年に日本民藝館沖縄分館が首里金城町に開館すると、工房での仕事の傍ら民藝館分館の運営を一手に引き受けてくださった。お弟子さんを連れて毎日工房から通われ、分館の廊下に手織り機を置き、分館の開け閉めや掃除、訪問客の案内などをしてくださっていた。92年に分館が閉館するまで、私も何度か訪ねた。あまり訪問客の多い時代ではなかったのだが、分館の仕事と工房の仕事をこなされ大変な毎日であった。

 98年には首里織物の無形文化財技能保持者(人間国宝)に認定された。それに伴い首里織の七技法が確立し、宮平さんは伝統的で上質な首里織物を織り続けてこられた。

 首里織物の美に対するこだわりは人一倍であり、日本民藝館所蔵の織物を復元された際には、何度も試作を繰り返され、最終的な着物の形になっても何度も織り直されていた。

 県内だけではなく国内外の工芸系の賞を総取りされており、その作品は高く評価されてきた。宮平さんが人間国宝認定を受けたことが画期となり、沖縄の織物は工芸的な織物から美術工芸的な織物へと深化していったといえる。そのような意味でも宮平初子さんの功績は極めて重要である。これからも沖縄工芸の将来を見守っていていただきたい。
 (県立芸術大学客員教授)