「写真に写る少女は私です」。琉球新報が昨年12月に報じた、米軍が1945年に沖縄の旧名護町とみられる場所で撮影した写真について、名護市在住の上地信子さん(93)が自らが撮影されたと19日までに証言し、当時を振り返った。撮影時の状況についても覚えており、旧名護町で食糧を探し、山の中の避難小屋に戻る途中だったという。飢餓の中、米軍のごみまであさる自分たちと、それを撮影する米軍との立場の違いを意識させられたと話す。
上地さんは沖縄戦当時16歳。那覇市旭町出身で1944年の10・10空襲まで小禄の日本軍の壕堀りに動員された。空襲で被災し、身重の母と幼いきょうだいと本島北部に疎開。避難小屋で母親が出産したが、食べ物がなく、飢えに苦しんだ。
上地さんは10人きょうだいの2番目で一番上の兄は県外へ働きに行き、父は召集されて不在。家族のために毎日、はだしで険しい山道を降り、現在の東江周辺に広がっていた畑でキャベツの硬い葉やカタツムリなどを取って持ち帰った。
日本軍は住民に「捕虜になれば暴行され殺される」などと恐怖心を与え、米軍に投降させないようにしていた。米軍の占領地域に食糧を探しに行く子どもたちは恐怖と隣り合わせだった。「怖かったよ。妹の絹子は米兵を見て泣きよった。でも怖くても食べるのに必死だから、やらないといけなかった」 (中村万里子)