ゴミ拾う少女に投げられた缶詰…米兵の撮影におびえた 93歳上地さん、投降後も弟妹亡くす


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写真が撮影された状況について証言する上地信子さん=名護市

『1945年の米軍占領地「写真の少女は私」 名護市の上地信子さん証言 飢餓の中、食糧探し』から続く


 上地信子さん(93)=名護市=らが写る写真は海軍建設工兵大隊が45年4月~9月に撮影し、2020年に同大隊博物館のホームページで公開したうちの一枚。

 写った看板には、「民間は名護市内(原文ママ)および付近に入るべからず」「軍事施設に近づくな」などと日本語と英語で表記されているが、上地さんによると、東江周辺には入ることができたという。

 上地さんは、見知らぬ年上の女性から「食べられるものがあるから米軍のごみ捨て場に行こう」と誘われた。ごみ捨て場は、現在の大中付近にあり、立ち入り禁止区域内だった。しかし、米軍の撮影者らは上地さんたちを捕まえることなく、わざと缶詰を放り、上地さんらが拾う様子を写真に収めていた。

 公開された上地さんらの写る一枚が撮られたのは、ごみ捨て場から避難小屋に戻る途中で、東江付近だという。かついでいる袋の中には、拾った缶詰などが入っていた。「『黒人兵が写真撮ってるよ』ってこわごわ歩いていたよ。(声を掛けてくれた)ねぇねぇが『アメリカは勝ち戦(いくさ)して威張って、自分の国に写真を送るんだよ』って話していた」

 写真を撮られて数カ月後の夏の日、那覇から避難してきた男性に「飢え死にするよりは降参しましょう」と促され、一列になって山を下り、米軍に捕まった。瀬嵩の収容所でも飢えに苦しむ状況は続き、赤ん坊と弟、妹3人が亡くなった。「戦って大変ですよ。家がなくなるし、きょうだいも亡くなるしね」。山中での避難生活をともに生き抜きながら幼くして命を落とした弟、妹を思い涙を拭った。

(中村万里子)