後輩を励まし、記者と激論も…「人情」警察官が退官 「どんな時も本気で向き合え」


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若手警察官にエールを送る那覇署の警視・志良堂貴生活安全官(左端)=15日、那覇署

 マスコミとの架け橋、人情警察官が卒業―。那覇署の志良堂貴警視(60)は3月、約33年間の警察官人生に幕を閉じる。県警本部で広報担当を約9年務めた珍しい経歴で、人情味あふれる物言いから県警内では「口車の弥七」との異名を持つ。「どんな時も本音で向き合え」と、若手警察官や県警担当の記者たちを捕まえては、口酸っぱく叱咤激励(しったげきれい)する。常に温かく、時に口うるさい。後輩や記者からは、父親のように慕われる志良堂警視。退官前に後輩たちへ思いを託す。

 1988年、警察官だった父親の背中を追って、26歳で県警察学校に入った。交番勤務などを経て交通機動隊へ異動、憧れの白バイ隊員となった。警察官になる前、「自動二輪車安全運転競技大会」で全国3位の好成績を残すなど、二輪車の運転技術には自信があった。しかし、公道で二輪車を巧みに操る白バイ隊員の技術力に舌を巻き、厳しい訓練に明け暮れた。93年、全国植樹祭で、来県した天皇皇后両陛下を乗せた車列の護衛に当たった。白バイにまたがった志良堂警視に突然、異変が襲う。「目に激痛が走り、前が見えない。テロか―」。結果は「過度の緊張で、まばたきを忘れていただけだった」と顔をほころばせた。

 47歳で県警本部広報相談課へ異動し、マスコミ対応に当たった。当初は気乗りしない部署だったというが、先輩警察官から掛けられた「1人の警察官が100人に防犯ビラを配るより、1人の記者が小さい記事を書けば何万の人の目に触れる。甘く見るな」という言葉で心持ちが大きく変わったという。

 被害者保護と公判維持を掲げる広報体制は譲らない一方で、「社会啓発への方向性はマスコミも警察も大異ない」と、事件報道の在り方などについて記者らと膝を突き合わせ議論を重ねた。記者と捜査部門に一悶着(ひともんちゃく)あらば仲裁に入り、心足らずの報道を目にすれば容赦なく、叱り飛ばした。異動を挟み計9年、広報担当として情報発信に汗を流した。

 志良堂警視は「警察だけが正義の味方じゃない。家庭や学校など、さまざまなところに正義の味方は存在する。お年寄りから子どもまで安心して暮らせる社会のために、いつもみんなが正義の味方であってほしい」と、後輩たちにエールを送る。

(高辻浩之)