「この基地を米軍からもらう」ミサイル基地が島のシンボル施設になるまで 国立沖縄青少年交流の家50周年 渡嘉敷


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現在の国立沖縄青少年交流の家(提供)

 【渡嘉敷】1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の日本復帰を記念して当時の文部省(現文部科学省)が国立沖縄青年の家(現独立行政法人国立青少年教育振興機構国立沖縄青少年交流の家)を全国10番目の国立青年の家として渡嘉敷村の米軍ホークミサイル基地跡に設置した。県内では基地撤去後の平和利用の第1号で、村の繁栄と平和のシンボル的存在となった。今年5月15日で創立50周年を迎える。

旧米軍のホークミサイル基地=1972年

 青年の家が設置されている北山(にしやま・標高200メートル)は村の歴史を秘めた由緒ある場所でもある。琉球王朝時代の、烽火(のろし)台番所跡、古代からの住民の崇拝場所「にし御嶽」、沖縄戦における日本軍の最後の戦場本部跡、村民の約3分の1に当たる330人が「集団自決」(強制集団死)した跡地がある。

 戦後は62年に米軍基地が設置され、米兵約250人が駐留し、69年8月に閉鎖されるまでの約8年間、基地として使用された。復帰時まで米軍の管理下に置かれ、72年5月15日に沖縄の日本復帰で返還され、返還後の跡地は国の教育の振興や青少年の健全育成の舞台へ変貌を遂げた。

 日本復帰に当たって、当時の玉井喜八渡嘉敷村長は、戦争で大きな痛手と犠牲を受けた島なので、閉鎖されたホーク基地を何とか平和的に利用する方策を早く見つけたいと考えていた。70年6月20日、沖縄返還を担当する政府の山中貞則総務長官が渡嘉敷島を訪れた際、玉井村長は基地跡の平和的な有効利用を要請した。

開所式で文部大臣式辞を代読する河野洋平文部政務次官=1973年6月24日

 基地視察後の車中で山中氏は玉井村長に「この基地を米軍からもらってやろうか」「青年の家にしようか」と話し、有志との懇談会の席上でも再度表明した。このことが、渡嘉敷村に国立青年の家が設立された発端といわれている。

 同所は、島の素晴らしいロケーションや広大なフィールドの中で、地域性や立地条件を生かし、これまでに県内外の青少年の宿泊利用者230万7290人、日帰り47万6648人の計278万3938人が利用し、平和教育、環境教育、自然体験、スポーツ合宿などを行っている。

 国立沖縄青少年交流の家は「5月15日に座間味秀勝村長はじめ村関係者や同所OBらを招き、創立50周年を祝う会を開き、来年には、開所50周年記念式典を開催する予定だ。その募金活動に取り組むので協力を賜りたい」と語った。
 (米田英明通信員)