<未来に伝える沖縄戦>サイパン戦闘 家族7人失う 大けが、一人きりで収容所へ 新垣シゲさん


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 戦前、日本の委任統治領にあったマリアナ諸島のサイパン島で生まれ育った新垣(あらかき)(旧姓山内)シゲさん(85)=読谷村高志保=は、1944年6月に始まったサイパンの戦いに巻き込まれ、家族7人を失いました。左足に砲弾を受け、米軍の病院や収容所で過ごした後、沖縄に引き揚げました。当時7歳だった新垣さんの戦争体験を、読谷村立読谷中2年の大西萌衣さん、新垣結愛さん、松田毬江さんが聞きました。

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 《新垣さんは1936年にサイパン島で生まれ、家族10人で暮らしていました。貧しいながらも、にぎやかな生活でした》

 サイパン島の南村(現アスリート)という地域で、生まれ育ちました。父・山内昌信と、母・マツは沖縄出身で、移住先のサイパンで出会い結婚したと聞いています。父は南洋興発の農業従事者で、サトウキビなどの農作物を育てていました。住んでいた所は人里離れた地域でした。

 きょうだいは8人いました。生活はとても貧しいものでした。おなかいっぱいになるまで満足な食事をしたことや、学校に通った記憶はありません。よく馬車に乗って、父ときょうだいと畑に行きました。年子が多く、貧しくもにぎやかな生活を送っていました。

戦争体験を振り返る新垣シゲさん=3月16日、読谷村高志保(大城直也撮影)

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 《サイパン島への米軍の攻撃が44年6月中旬、始まりました。新垣さん一家は、壕に避難します》

 まだ幼かったことや人里離れた所に住んでいたからか、戦争が始まる様子は分かりませんでした。ある日突然、父が「壕に避難する」と言いました。幼いきょうだいと手を引いて、壕に避難しました。

 広い壕の中には、見たことのないほどの大勢の人がいました。日本人や朝鮮の方ばかりでした。空を飛び交う米軍機の音が壕の中に響き渡っていました。赤ちゃんの泣き声や人の話し声が響き、壕の中はうるさく、会話ができないほどでした。父が「ここにいては米軍に見つかって殺されてしまう」と言い、家族で壕から出ることに決めました。

 7月13日深夜、新垣さんの家族は壕から出ました。外は米軍機が飛び交い、空襲で村のあちこちが赤く燃えていました。「もう生きられないかもしれない」。恐怖でいっぱいでした。両親は幼いきょうだいたちの手を引いて逃げるのに必死でした。途中で、兄2人とはぐれてしまいました。

 夜道を長い時間歩いていると、私たち家族の頭上を米軍機が通りました。「隠れろ!」。父が近くの民家を指さしました。全力で走り、家族で民家の床下に身を伏せました。しかし米軍機には見つかっていたのでしょう。すぐさま、私たちが隠れていた民家に爆弾が落ちました。一瞬のことで、なにが起きたのか分かりませんでした。家族の声が聞こえてきません。聞こえるのは、飛行機が飛び交い、爆弾が落ちる音だけです。隣の姉を見ると、おなかから内蔵が飛び出し、体は血で赤く染まっていました。私も左足に大けがを負いましたが、不思議と痛みは感じませんでした。

 しばらくして、米軍の衛生兵のような人たちがやって来ました。私たち家族を一人一人見て、両親ときょうだいに注射を打ち始めました。生きることは難しく、楽に逝かせようと判断したのでしょうか。私は助けられる見込みがあったのか、一人だけ急いで担架に乗せられ、米軍の病院へ運ばれました。家族も後から運ばれると思っていましたが、いつになっても家族は来ませんでした。あれが家族との別れでした。別れの言葉を言うことすらできず、家族の顔を見ることもできず、ひとりぼっちで連れて行かれました。

※続きは4月13日付紙面をご覧ください。